針摺地峡(二日市水道)について 中村通敏
四月の例会での中島会員の話は、「つくし」の語源とか、「針摺水道の実在」についてのことでした。針摺地峡については、宮崎康平氏が『まぼろしの邪馬台国』で、その実在を論じています。中島氏が宮崎康平の話を出されるかな、と心待ちにしましたが出てきません。中島氏の発表の途中でつい、「この件について宮崎康平さんが云々」と話の腰を折るような発言をしてしまいました。その失礼をカバーするためにも、と思い「針摺地峡」についての自分の意見をまとめてみました。
この針摺地峡については、「NEWS」163号や164号でも述べられています。多くの古代史ファンにとって魅力のある仮説です。この地峡に水路が通っていたら、と、いろいろ古代世界のロマンに花が開きます。
この「水道」の存在と徐福伝説(BC三世紀前半)と卑弥呼の国への魏使の行路(AD三世紀前半)の二つの事柄と結びつけて論じられることが多いようです。
今回は、比較的新しく、かつ史料的にも確実性の高い「倭人伝」の行路記事との関係について、その「水路の実在」の当否について意見を述べます。いろいろな方が御笠川と宝満川とを結ぶ水路の存在について述べていらっしゃいますが、その中で科学的な装いを付けて論理的に納得出来るような形で述べられている、宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』を例にとって検討した結果を述べます。
宮崎康平氏は、『まぼろしの邪馬台国』(講談社文庫)第二部第九章「有明海へ通じていた博多湾」という項目のなかで、「二日市水道実在」を述べています。この「宮崎康平氏の邪馬台国」は島原半島にあったとされます。博多湾から「南へ水行十日陸行一月」という行路記事と、「邪馬台国=島原半島」を矛盾なく収めるには、御笠川と宝満川が水路で繋がっている必要があります。これは、邪馬台国筑後説の方々にとっても魅力的な仮説です。
針摺地峡(二日市水道)についての根拠は、九州大学の真鍋大覚先生の研究に基づくところが大きいようです。一九八二年五月二〇日付けの読売新聞に、「三千五百年前の九州北部」という記事が出ています。(別添記事参照)
(新聞記事:注1参照)
宮崎康平さんの考えの骨子に上げられていらっしゃることを調べてみますと、いくつかの疑問が出てきました。「二日市水道」の宮崎説は次のような骨子でできあがっています。
①二日市水道が存在していた。それは近傍の山の崩落や河川の氾濫で埋没した。根拠は二日市温泉大丸別荘の温泉掘削のコアでは、海面下三〇米位の所の地層が邪馬台国時代の海水面に該当すること。この説は、九州大学の真鍋大覚・坂田武彦先生方の協力と指導によるもの。
②埋没した水道を復元すべく運河を掘削し、石垣を築いている証拠が出てきている。次田・杉田という地名がそこに残っているが、築地・築田と同じ意味で、ツキタが訛ったもの。
③水城遺跡はこの運河の調整池的な役割があったと思われる。
その古来「二日市水道」が存在した、という説を発表されたのは、真鍋大覚先生です。一九八〇年に、九州各地のボーリングコアの中に含まれていたハイガイという貝の化石の放射性炭素年代測定を、九州大学の坂田先生との協力で行って、九州の古代地図を復元され発表されました。
確かに、その研究の成果として挙げられている、三千五百年前に水路が存在していた可能性はあろうと思われます。しかし、卑弥呼の時代、AD二五〇年ごろとは約一三〇〇年離れています。真鍋先生のおっしゃるように、三五〇〇年前には、筑紫が群島に別れていたということを認めるとしても、卑弥呼の時代までその水路が存在した、ということにはならないと思います。
宮崎康平さんは、埋没した運河を復旧しようとした証拠の構造物が出土する、ということを根拠の一つに上げられます。しかし、宮崎康平さんの調査網にかからなかった、というのは不思議ですが、『福岡県百科事典』(西日本新聞社一九八二年刊)に、次の様な記事があります。
■上座郡堀川開発計画
【江戸時代、筑前国上座郡(朝倉郡朝倉町)と福岡・博多両市中を、河川と運河で結ぼうとした水路計画。福岡藩領の上座、下座両郡は、城下町福岡から遠くて水運の便がなく、年貢米などを福岡に運ぶには膨大な人馬を要した。このため、筑後川から水を引き福岡、博多まで水路を建設せる計画は、江戸時代初期から幾度もたてられ、一六六四年(寛文四)には幕府の許可を得て着工した。
このときには開削地に岩が多く、多大な労力を必要としたため途中で中止。一七五三年(宝暦三)には、この計画の一部ともいうべき御笠・那珂二郡堀川が完成したが、水量が乏しく船が進まなかったため、まもなく廃止された。
一八一〇年(文化七)福岡簀子町(中央区大手門)の米屋与平が、上座郡山田村(朝倉町)から筑後川の水を引き、諸川の底に水門を設け、或いは樋を渡して博多まで船を通す計画書を藩に提出した。一八一三年には不備な点を改めて再提出したが、成否利害の諸説紛々として結局実施されなかった。】
宮崎康平氏が埋没した運河の復旧工事の痕跡、とされるものは、この江戸時代の工事の痕跡である可能性があります。
『釈日本紀』にある矢田部公望の、筑紫国の由来の記事の中の、『筑後風土記』(逸文)にある、この筑前筑後の境にある坂についての表現、「鞍韉(したくら)を摩り尽くす」から、「鞍韉(したくら)」は「船底」のことではないか、「船越」ではなかったのか、とされる論者もいらっしゃるようです。
この『筑後風土記』(逸文)の記事を文字どおりに解すると、この地峡は狭く且つ滑りやすい堅牢な地盤であった、ということの表現と思われます。これが、江戸時代の工事がうまく進まなかった理由の一つとも思われます。もし、水路が山崩れや河川氾濫で埋没した新しい地質であったら、運河開削も比較的容易ではなかったか、と思われます。
宮崎康平氏は『まぼろしの邪馬台国』の終わりに、次のように書いています。
【水道の問題については、かいつまんで述べたこの程度のことでも、読者にはおおよその理解が願えたと思う。今回もまたまた簡略にすぎたが、さきを急ぐので、詳細は続刊を予定している『筑紫の水や空』にゆずることとして御寛恕を願いたい。以上のような次第で、地峡に埋められた筑紫の碑文は、やがてだれかの手によって近く掘り起こされるであろう。私は邪馬台国時代に水道が存在していた事実を今回は確認しただけの報告にとどめ、新たな邪馬台国への道標としてこの項を終わりたい。】と。
宮崎康平氏が予定していた次作、『筑紫の水や空』の草稿でも見つかれば、別のヒントがあるかも知れません。しかし、「二日市水道が邪馬台国の時代に存在していた事実」は、宮崎康平氏のこの『まぼろしの邪馬台国』で述べられる根拠からは認められないことだけは、「事実」と思います。
これらの疑問を解決出来ないことがあることを、宮崎康平氏自身もよくお分かりだったので次回予定作『筑紫の水や空』の出版は諦められたのではないのかなあ、などと思っていますがどうでしょうか。
以上見てきてきたことから言えるのは、二日市水道(針摺地峡)が存在していることを確かめるには、3世紀前後の地峡の状況をもっと精密に検証する必要がある、ということでしょう。
針摺地峡沿いのボーリングデータを多数集めて、埋没の証拠を見つけ、海抜ゼロメートル前後の地層を詳しくみれば、古代水路の痕跡がひょっとしたら見つかるかも知れません。これは地域自治体の建築指導課などの協力を得られれば不可能ではない、と思われます。
「倭人伝」が伝える行路記事での「水行十日」を、針摺地峡を水行した、と証明するためには、もう少し調査が必要であり、その調査は不可能ではないと思われます。その調査の結果、「水路の存在説は不可能だった」となるのではないかなあ、邪馬台国筑後説にとっても、はっきりさせない方がロマンがあってよいのかなあ、というのが小生の現在の心境です。
二〇一三年四月二十三日
注1:(見出し)3500年前の九州北部
九大の真鍋助教授が一石 博多湾―有明海 つながっていた ハイガイ化石で渚線
(写真説明キャプション 黒の部分が約3500年前の九州北部の陸地部(線が現在の海岸線)
各地で見つかったハイガイの化石
今から3500年前の九州北部地方はこんな??だった―九州大学真鍋大覚助教授が北部九州各地の貝塚から出土したハイガイの化石を手がかりに古代の渚線を引いたところ①博多湾と有明海は太宰府付近を瀬戸にしてつながっていた②福岡平野、筑紫平野は海底にあり、福岡地方は群島だった③島原半島は雲仙岳を頂く大きな島だった― との姿が浮かんだ。同助教授は地質ボーリング資料などでも同様の結果を得ており邪馬台国論争にも一石を投じそう。
北部九州は104㍍隆起!?
干潟に住むハイガイは現在、有明海の一部、緑川などにわずかに生息しているが、かっては北部九州でも広く生息していた。ハイガイが干潟にしか住まないことに注目した真鍋助教授は四十二年ごろから化石を採取、これまで□□・□□□□、諫早・□□□□、福岡市・今津□□、同・九州大□中央□□□地下、福岡県□□郡・□□遺跡― など十五カ所から見つけられた化石をもとに、放射性炭素(C14)で年代測定した。この結果、諫早や??の化石は三七五七-一三七〇年を経ていると判明。
出土地点の現在の標高と資料の年代推定□□の□□□□を計算し、北部九州一帯はこの六千年間に一〇四.六㍍も地表が隆起、有明海の干潟は三千六百七十九年間に八十二.五㌔㍍南に下がった、との結論を出した。