古田武彦師の兄弟弟子の一人、「新・古代史の会」事務局長 合田洋一氏から”この書状は、皆様にぜひともご高覧賜りたく、ご送付申し上げます”という手紙が届きました。(2020年10月6日受領)
その内容は古田史学会の古賀達也会長にたいする抗議文でした。
当研究会はトップページに述べていますように、古田武彦氏への勝手連的応援団として発足したものです。
その趣旨に基づけば、この合田氏の抗議文は支持しなければ会の本分に悖りますのでホームページに掲載することにいたしました。
今後古賀氏の方から何らかの意見が届いた場合には、その内容もお届けしたいと思っています。 棟上寅七
古賀達也殿 松山市XX町X-Y-Z 合田 洋一
前略
貴殿の「洛中洛外日記」第2228話2020年9月8日 文武天皇「即位の宣命」の考察(10) の記事を見てびっくり仰天、唖然とし、これをこのまま到底看過できないので、一筆計上苦言を呈したい。
その記事は、古田先生の著書『よみがえる卑弥呼』(駸々堂1987)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智10年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が名乗ったとされています。
これは古田史学の中でも“孤立”した説で、古田学内でもほとんど注目されてこなかった論文です。言わば古田説(九州王朝説)の中に居場所がない“奇説”でした。とある。
このような記事は、貴殿にとって大恩師であるはずの古田先生を愚弄・冒涜する以外のなにものでもない。居場所がない“奇説”とは何事ですか。
“誰からも支持されない、いかがわしい奇妙な説”と言いたいのですか。
また、先生の説に対して自説に会わないからと言って“孤立”とは。貴殿の独りよがりの主観ではないか。
貴殿はこのような記事を先生の生存中に書けますか。この記事を見た人は、かって先生を“裏切った“XXX氏を彷彿されるのではないだろうか。先生亡き後の貴殿の論考は、まさにそう思わざるを得ない。
貴殿は一介の研究者ではなく、「古田史学の会」の代表という立場の人なので問題になるのです。貴殿はそれを解っていない。一元史観の人たちからは物笑いの種となっていることを認識しなければならない。ネットで炎上している「古田史学の大崩壊」と。
以前、私も在籍していた会でもあり、”古田学派“内のことでもあるので、この記事をこのまま見過ごし、許すことはできない。
更にもう一点、これについては正木裕事務局長に既に申し入れをしていますが、『古田史学会報』No159に掲載された貴殿の論考「造籍年のずれと王朝交代」論に間違いがあります。その記事は、
たとえば、唐軍から筑紫を追われた「九州王朝の斉明」なる人物が愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」の地に遷都したとする仮説(合田洋一説、注⑥)があります。その仮説に従えば、「九州王朝の天子(斉明)」以外の筑紫にいて権力者により筑紫の「庚午年籍」が造籍されたことになります。筑紫を追われた勢力に、筑紫諸国の造籍などできるはずがないからです。(注⑥合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。)
と記していますが、この説の基本は古田武彦論考「九州王朝終末期の史料批判―(白鳳年号をめぐって)」『古代に真実を求めて』第15集所収2012年3月古田史学論集 であり、これは古田説ですよ。貴殿が当該書編集の総責任者ではないですか。それなのに、このような基本的な間違いをするとは信じられません。私にただ難癖をつけたい一心からではないですか。姑息ですね。謝罪し、訂正を求めます。
ついでに言っておきますが、私は古田説に則りこの時期「西条の明理川の紫宸殿には天子・斉明がおり、大宰府には唐から帰還した九州王朝の摂政で都督・薩夜麻がいて、近江には近畿天皇家の大王・天智が居るという、日本国内三重構造の政治状況があったことになる(『葬られた驚愕の古代史』250頁)。」と記しており、西条に日本国内のすべての権力が在ったとは一言も言っていない。
他人の説を批判する場合にはよく読んでからにしてください。なお、私にはこの古賀説批判を公開する手段がないため、この書状を広く関係各位に送付することをご承知おきください。 草々