エピローグ その1 古田武彦さん

まだ始まったばかりで、エピローグとは、と訝しく思われるかもしれません。

このホームページの読者の方から、次のような問い合わせがありました。

「古田武彦さんの著書をいろんなところで引用したり、抄訳と云って適当に文章を切り取ったりして、大丈夫なの?」と著作権上の問題についてのご心配でした。

このホームページを始めるにあたりまして、第一の心配はその点でした。ネット上から写真など勝手に切り取って転載はしてはいけない、ということは分かっていましたが、第一の心配はその古田さんの著作の点でした

YAHOOなどにサイト登録する時に、古田武彦さんの勝手連的ホームページですといって登録は出来ましたが、それで済むものではないことは重々承知しています。

とりあえず、古田史学会が取り仕切っているような感じでしたので、「一応このようなHPを立ち上げました。何か問題と思われるようなことがありましたら、このアドレスまでご連絡下さい」と事務局長さんにメールしておきました。

しかし、心配です。ネット上のちっぽけなHPが、古田先生のお目に止まることもないだろうとは思いながらも、もし何かあったら、80歳を過ぎられた大先生です、どんなところで、大目玉を頂戴するかも知れません。

考えた末、思い切って、プロローグから槍玉3までをプリントアウトしまして、幸い、ご住所は学士会員名簿で分かっていましたので、「HPの趣旨と、ご著書の引用を勝手にしていますが、お許し下さい」 との手紙を付けて、私の正体を露わにして、お送りしました。

メモ帳を見ますと、平成18年5月26日のところに「夜古田先生より電話」とあります。

手紙見ました。カラフルで中々いいね。どんどんやってください。 と思いがけない激励のお言葉でした。

最近の、朝日新聞の、太宰府から出土した孚石部の文字の標識の記事、について読んだか、とお尋ねがあり、幸い読んでいましたので、話についていけたわけですが、あれは孚石部でなく孚石都ですよ。都は津と意味云々・・ ということの説明がひとしきりあり、又、兵庫で出土した木簡に、所謂九州年号が出た、いよいよ通説の方々は、説明に困るのでは、など、初対面(談)の私に、随分と長時間きさくにお話しをしてくださいました。

その後、6月に入って再び電話が鳴りました。私が、槍玉リストに松本清張 古代史疑を上げていたのにお気づきになられたのか、「京都のミネルバ書房から なかった という雑誌が昨秋出ています。それに松本清張への書簡という形で、古代史疑について私が書いている」 という趣旨の話でした。

お蔭様で、先般、拙論ですが、槍玉その9 松本清張 古代史疑 をネット上に出すことが出来ました。

以上の経緯は、このHPが使命を終える時の、エピローグに取っておこう、と思っていましたが、いつエピローグを書く時が来るか分かりませんし、私も、神様からいつお呼ばれするか分からないので、ともかくエピローグその1として出しておきたいと思います。

ということで、頭書のメールをいただいた方へのご説明を兼ねまして、報告とします。

                  http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/button14.gif