七十歳からの自分史 わたしの棟上寅七  中村通敏 イラスト 川村そら

(電子版の公開に当って)2009年に原書房から私家版として出版されました。その原書房版を元に電子化しましたが、一部固有名詞その他個人情報に係わる所などは一部変更しています。ご了承ください。 2015年6月 棟上寅七)

目 次

推薦のことば
    西田の時、シャイな豪傑    
    寅七親戚よりの推薦文    
わたしの棟上寅七
第一章 寅七の誕生まで
     はじめに
     プロローグその1~その4
     ホームページを開く
     さて、タイトルをどうする
     次にペンネームです

第二章 ノリキオ画伯の誕生
     文章だけのホームページは面白くない
     中3の孫に描かせたらどうかな
     古代史に興味がないけど

第三章 ホームページの肝心の内容は?
     批評の対象は?
     ともかく船出

第四章 船出はしたものの
     著作権などの問題
     エピローグ?

第五章 寅七はどんなことを欠いているのか
     批評の概要11篇
     道草の欄を設ける

第六章 ホームページへの不満をどうしよう
     棟上寅七ブログ事始め
     励ましコメント・迷惑コメント
     おまけもありました

第七章 今後の寅七とノリキオ

寅七眷属より あとがきにかえて
     ライオンパパ出版おめでとうございます 
     ライオンとノリキオと寅七のこと      
     がんばれ寅七、あと20年        

付録その一 道草の記事よりの二篇
     「古田さんとの一問一答」及び「金印の謎」
     「鎌足と鏡王女 寅七が語る眞説」

付録の付録 建設業界誌1956年7月号
     「孫の名前を付ける」



推薦のことば

「西田」の時、シャイな豪傑のこと
                       S H(XXX元代表取締役会長)

 中村通敏君が本を出すといいます。字を書くことができないぼくは、以前から単行本を、どんな形であれ出版する知人を無条件に尊敬します。どうしてこんなに沢山の字を書くことが、彼・彼女たちにできて、自分にはできないのだろうか、というあきらめと軽い嫉妬にかられます。

 昭和十六年六月、国民学校令に基づいて小学校が国民学校にかわりました。ぼくたち昭和10年(11年早生まれも)生まれは、太平洋戦争がはじまって「少国民」になるための国民学校の最初の入学生となりました。

 中村君は杉並第二、ぼくは桃井第二のそれぞれ国民学校に入学し、翌年6月に新設された「西田国民学校」に移ります。一学年男女各一組でした。荻窪駅に近い桃二からかわって、ぼくの家からバス通りを渡って、両側が畑の細い長い道をつきあたるあたりに、学校と中村君の家がありました。バス通りをはさんで、いわばブロックは違うけれど、よく一緒に遊ぶ仲間でした。

 そして、戦況、日に日に非にして、少国民は、昭和19年6月の「学童疎開促進要綱」に基づき、やがて焼夷弾の豪雨にさらされる東京から地方に疎開することになり、地方に縁故がないものは、集団疎開をすることになりました。

 その年の8月のある夜、ぼくは、中村君をはじめ多くの同級生と上級生と一緒に、信越線で上田に向かいました。杉並区の国民学校のいくつかは、信州別所温泉の各旅館に住むことになります。西田は和泉屋、花屋はどこ、というように。

 3年生は集団疎開第一陣のもっとも下の学年でしたが、中村君は4年生になる前に九州に縁故疎開で別れました。終戦となり、虚弱児童と云われていたぼくは、栄養失調となり、皆より一足先に荻窪にかえりましたが、西田小学校は空襲で全焼していました。

 集団疎開にかかわることは、実は思い出したくないこともありますが、親元を離れて暮らした同級生との月日の思いではとても強く、いまだに変わらない暖かい絆を作ってくれました。

 昭和22年、学校教育法という法律が出来、西田小学校と名称が変わった母校を卒業し、「国民学校」の期間をフルに過ごした唯一の年代となりました。それらは、漠然とであっても、ぼくらに特別の年代感を植え付けたと思いますし、ぼくも、また恐らく中村君も、そのことを大事にしています。

 それからながく別々の場所に住み、社会人となってから時折、その西田の時を生きた仲間が集まるようになりました。思い出の信州別所にも行きました。中村君は集まりのたびに、隅の方で穏やかににこにこ微笑っていますが、実はその集まりは中村君が注意深く設定したものであることを、あとで知ることがよくあります。

 平成9年2月号の文芸春秋誌「同級生交歓」欄に、60歳代はじめの西田国民学校の四人の屈託のない笑顔が並ぶグラビアが掲載されました。

 このページができたのも、奥村組専務(当時)の中村君の力でしたが、彼が書いた写真の下の短い紹介文は、『第二の故郷、信州別所を共有できる友らがいる幸せを今更ながら有難く思うこの頃である(中村)』と締めくくられています。

 グラビアにのった、中村君とぼく以外のふたり、朝日新聞で健筆をふるった、少年時代は成績一番にして最強の餓鬼大将だった、角倉君と、江戸時代からの和菓子「萬年堂」の当主だった樋口君は、本当に早く鬼籍に入りました。

 その他にも大事な仲間が何人も早世して悔しい限りですが、別所で、西田で、そこらの居酒屋で、笑っていたみんな、集まりの幹事役の濱田の幸ちゃんや、プールで泳いでいる時に急逝した佳子ちゃん、去って行ってしまったみんなは、ぼくらの間ではいなくなることは決してありません。

 それぞれの日々を送っているわれわれの同年で、いまだに現役の会社代表の重責をつとめている(これはおどろくべきことです)中村君が、細い目を一層細めて、どんな時でもかいかつな伊智子夫人とともに興じるゴルフのことはネットでご覧ください。どこをとってもただものではない、シャイで律義な彼は、同時にどっしりと地に根をはやしている強靭な九州男児です。

 そして、こんどは邪馬台国にかかわる本ときた。古田武彦先生の名前にもはじめて接したぼくには、(志賀島の金印をみたことがあるくらい)、本のなかみについてあれこれ申すことはできません。

 ただ、この簡潔にして壮大な文章をしたためる奥に、膨大な書籍や資料と取り組んできた中村君の継続的なエネルギーに脱帽するばかりです。読者のみなさま、どうぞこの創造を絶する馬鹿力を堪能されますように。

 かろうじて一言。このすごい量の見識と知識がつまった本のイラストをものにした、ノリキオ画伯のセンスと技量はすばらしい。これからもシャイで静かな誠意と、おどろくべき大胆不敵が同居するジイサンと絶妙なコンビを続けてください。

 中村通敏君、愛してやまないご家族ともども、元気で、またぼくらと「西田の時」を過ごしてください。そしてあらたな力作に取り組まれんことを。


『七十歳からの自分史』寅七親戚からの推薦文
                       歌手 K・Y
          
「始めてのデートの待ち合わせで、仕事が忙しくて遅れた、と顔を真っ赤にして、汗を拭き拭き走ってきたのよ。それも作業着・作業靴で・・・。よく見たら。頬に汚れが付いて(笑)。ふつうは、始めて会うわけだから、おしゃれをして余裕を持ってって考えるでしょ?(笑)でも、私はそんな素朴で飾らない、まっすぐなところがいいな~って思ったのよね・・・」

 こんなお話をうかがったのは、もう何年も前のこと。寅七さんこと、中村通敏様の奥様、伊智子おばさまからでした。このエピソードには、今もなお、ご夫婦として、人間として、お互いを尊重し、想い合っていらっしゃる「原点」を感じることができます。

 お料理もプロ級のおば様は、ご主人が連れていらっしゃる突然の来客にも、いつも手料理でお迎えしたそうです。若いころの給料では、手料理じゃないと無理だっただけよと笑っておっしゃるおば様には、ご主人を陰で支えてこられた妻としての自信を感じました。

 つねに第一線でご活躍されてきたおじさまは、とてもまじめで、回りに対して細かい気遣いをされる方です。そして何より謙虚な方です。いろいろな役職を経験すると、上からものをいうような口調で、意見を押し付けるような印象を受ける方が多い中、きちっと相手の話を聞いて、丁寧にお話して下さるおじさまのような方こそ「紳士」と呼ぶのにふさわしいのだと思います。

 さて、リタイヤされた後の時間の使い方に、趣味を生かして古代史研究会ホームページの立ち上げや、ブログ、ゴルフそして本まで出版してしまうとは、すごいパワーです。一般的なリタイヤの時期は、おじさまに関して言えば、当てはまらないようです。九十歳でのエージシュートも夢ではないですね。

 ホームページの苦情処理や邪馬台国所在地についてのお話も楽しかったのですが、私は、文字の並びを工夫して生まれる「寅七独自の名付け法」に興味を持ちました「なかむら みちとし」→「むなかみ とらしち」。

 孫の名付けに、夫婦の名前(たろう まさこ)の最初の文字をいれて「たまき」(長男もそれにならって「たつま」)とされました。何かのおりには、参考にさせて頂きたいと思います。

 そして、「ノリキオ画伯」。確かに、幼い頃から絵の才能には、目を見張るものがありましたが、名前の誕生方法がわかりかねます。ノリキオ画伯の本名もわかるのに、悩んで眠れなくなりそうです。今度お会いしましたら、イチコママ同様、謎解きをお願いしたいと思っております。

 おしまいに、冬の寒い日、妻の肩にそっとショールをかけるおじさまに、私は、おば様の「何かなさいませんか」の言葉に押されて、きっとまた何かお始めになりそうな予感を感じずには居られません。

 また、ホームページに遊びに行かせていただきます。



第一章 寅七の誕生まで


 棟上寅七、ムナカミトラシチとふり仮名がある名前、それにノリキオ画伯、見るからに嘘っぽい名前です。この二つの名前の誕生については、3年前、2005年までさかのぼらなければなりません。

 70の節目の年を迎え、実業社会の第一線からもリタイヤすることになり、大抵のみなさんと同様に、さて何をして過ごそうか、ということに思いをめぐらすことになりました。

 記憶力・思考力・集中力がここ1~2年の間にとみに悪くなっていると思われます。下手の横好きのゴルフ。オフィシャルハンディ一番上がった時で13、典型的なスライサーです。最近どんどんスコアが増えてきています。

 飛距離が落ち、パーオン率が下がったからだろうと思っていましたが、パソコンに入れていたデータを見ますと、それ以上に下がっているのはパーセーブ率です。又、大たたきしたあと立ち直りが出来にくくなっている、コースマネジメントの思考力、アプローチ・パット時の集中力が落ちていることがわかります。認知症の危険水域に入った、と自覚しなければならないと思いました。

 昔から年を取ったら晴耕雨読だそうです。だから、天気良ければゴルフ、悪ければ読書、と漠然と考えていました。しかし好きなゴルフも年々出掛ける回数も減り、所属クラブの懇親会や、昔の会社のOB仲間の会などでのゴルフに限られ、60才の頃は年に7~80ラウンドしていたのが嘘のように、現在では半減してしまっています。

 家庭の状況はとみれば、転勤族の家庭は核分裂状態です。大学の工学部を出て、建設業に入り、九州は南端鹿児島での鉄道建設現場からスタートして、四国・東京・大阪などの各地、合間に、ワシントン州のクーリーダム・中国上海の製鉄所建設・返還前の香港地下鉄建設にそれぞれ1~2年の外国勤務を挟んで、最後の止まり木が九州でした。

 九州生まれの子供達は幸い、東京で中学高校大学を過ごすことができ、つまり私が単身赴任したということですが、「故郷」といえるものがなくても、3人の子供達は、それでも無事に成人し、大阪・東京・カルフォルニアで生活しています。

 わたしも家内も、今更、なじんだ九州を離れる気はないし、幸い20年前に仮の棲家として買った中古マンションは、環境は良いし、夫婦の終の棲家とすることとし、後は、ボケ防止対策をどうするかに絞られました。

 ここから、棟上寅七の誕生となります。なんと、古代史のホームページに挑戦という、ボケ防止対策に取り組みました。

 なぜ古代史か? このことについては、半年後に開いたホームページで、プロローグという次のような文章を載せていますのでそちらを読んでいただければご理解いただけるかと思います。


プロローグその1 「それは一九七一年にはじまった」

 この年に始まったものに、TV番組「新婚さんいらっしゃい」があります。また 「私の城下町」のルミ子さんの歌声がここかしこで聞こえていた年でもあります。 後年この年は藤原紀香さんの誕生した年として記憶されるかも知れません。 
 
この1971年の干支は、辛亥だそうです。古来、辛酉の干支の年は王朝の交代など異変のある年だそうです。それと同様に、辛亥という年も、清朝が滅亡し辛亥革命として世に知られていますように、激動の年だそうです。(後で知ったのですが、筑紫の君磐井が継体天皇に滅ぼされたのも531年辛亥の年でした。)
 
 ニクソンショックと言われるドルショックが起きたのもこの年です。中国では毛澤東(マオツオトン)にクーデターを企てた林彪(リンピャウ)が失敗し、モンゴルの空から墜落死という結末を迎えた年でもありました。

 しかし、日本古代史にとりましては、古田武彦さんの『 「邪馬台国」はなかった』 の出版ほど衝撃的な出来事はなかったことでしょう。以後、『失われた九州王朝 』『盗まれた神話』 と立て続けの古田武彦さんのご本の出版によりまして、従来の諸学説は吹き飛んでしまった(かと思われました)。

 近年、日本近代史の見直し、ということで、「 新しい歴史教科書」運動が盛んなようです。 しかし、日本歴史の基本の古代史の見方がどうか、と見ますと、旧態依然の歴史観で著述されているようです。私などが浅学非才をも省みず、蟷螂の斧を振るおう、という理由を次に発表したいと思います。


プロローグその2 「蟷螂(とうろう)の斧」                                                                           あまりの硬さに思案中の蟷螂
  私は、辛亥の年、1971年当時、企業戦士の一員として海外にて外国の人を相手にしていて、日本の情勢、特に古代史の分野で、辛亥革命・ニクソンショック以上の衝撃を与える、 『「邪馬台国」はなかった』 が出版されましたことを知る由もありませんでした。

 1972年に帰国し、1973年のオイルショックで企業活動が一時混迷の時代に、角川文庫の『「 邪馬台国」はなかった』に書店で出会いました。 一読して驚倒、その論理の組み立て方、緻密さに目の覚める思いがしました。

 引き続き、1974年の、 『失われた九州王朝 』・『盗まれた神話』 と立て続けに古田武彦さんのご本が出版されまして、勤務の合間にむさぼるように読みふけったものでした。

 それまでは、或る小倉日記伝以来のファンであった松本清張さんの『 古代史疑』や目が不自由になりながら鋭い感覚で邪馬台国探しをされた宮崎康平さんの 『まぼろしの邪馬台国』を読んでは、やはり邪馬台国の確定は無理なのか、と思っていました。

 それが論理的な帰結として、何と『魏志』倭人伝の邪馬壹国は、博多湾岸にあったという古田説により、積年のツカエが取れた感じとなり、これで日本の古代史の蒙昧さも晴れた、と思っていました。

 ところでそれから、何と、アッという間の35年を閲して、紅顔の青年も企業戦士の役を終え、年金生活に入ることになりました。家内から、何かなさいませんか、認知症とやらになりかねませんよ、といわれますし、取りあえず、同様の人たちが思い立つように、自分史でも纏めようかと思い立ちました。

  しかし、企業戦士としての歴史は、企業活動の歴史とも全く重なります。現在の、コンプライアンスとかの法令順守の世の中の規範とは随分とかけ離れた企業活動であったし、関係者もまだ多数ご存命でご活躍中の現在、文章に出来ることではない、と思い至りました。
 
青少年時代乱読した本も読み返す時間は出来ました。石橋湛山の『小日本論』やトロツキーの『わが生涯』なども読むと、昔と違った感慨が生じます。

 古田武彦さんの一連のご本も改めて読み、その後の古代史論争はどうなったのだろう、と思いました。 書店に立ち寄って、歴史本コーナーを見てみますと、君が代論・万葉集新解釈・多元国家論などなど、多彩なご本を出版されていらっしゃるではありませんか。

 私より随分お年は召されている筈、とご著書の奥付を見れば、1926年のお生まれと記してあります。現在(2005年)は昔のいわゆる傘寿のお年なのにはまたビックリです。

 それよりも驚きますのは、たとえば、『君が代を深く考える』(古田武彦著) の中で、『 「邪馬台国」はなかった』以来、表に立った歴史学会からの批判はなく、邪馬台国の所在は「近畿説九州説両論あり、従来通り」、と頬被りを学会が極めこんでいる、なぜ 日本の「古代史学会」は沈黙を続けるのか、と憤慨されていらっしゃることです。日本の古代史の学会というところは、理論・論理で正否の判断が出来ないところなのでしょうか。

 2003年ころからでしょうか、歴史教科書問題が巷間けたたましくマスコミを賑わし始めました。「新しい歴史教科書」とあるからには、古代史部分も新しい視点から光が当てられたかな、と若干の期待感で、 扶桑社の歴史教科書を手に取ってみますと、これが全くの期待外れです。

 ついでに、と受験戦争では古代史はどのように取り上げられているのだろうか、と河合塾の石川先生の講義を聞いてみますと、これも旧態依然としています。

 義を見てなさざるは勇なき也、と非才微力をも省みず、蟷螂の斧を私なりに振るってみようか、時間はあるし、非才の部分は、幸いインターネット時代ですし、大量の知識が瞬時に手元でヒモトケます。

 ということで、大層な 「新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページを立ち上げることになった次第です。

【上のイラストは、蟷螂(棟上寅七)が硬い石(学会)をどう料理しようか、と思案しているところです ノリキオ画】


プロローグその3 「武器・弾薬」    
                                                                 武器弾薬
 ところで、歴史教科書の古代史部分を批判するにしても、その軸を決めなければなりません。世の中の理性ある人々に、ナルホドと頷かすことができるかなあ、思っただけでも大変なことを思い立ったものです。

 古田武彦さんの三部作から得た知識によりますと。日本古代史には、大まかにいって五つの問題点があると思います。

① 縄文時代に中部日本で花開いた、銅鐸文化をどうとらえているか。
② 邪馬壹(台)国をどう説明しているか
③ 朝鮮半島と北部九州の関係
④ 倭の五王 をどう説明しているか。
⑤ 倭国と日本国の説明は。

まあ、この諸点からみていこうと思います。

 その武器というか弾薬というか、 古田武彦さんの一連のご著作を頼りにするにしても、自分の知識も少しは高めなければならないでしょうから、と、ゴルフ練習の時間を久しぶりに読書の時間に当てることにしました。

 生来の濫読家と自負していましたが、この半年に、この準備のために読めた本は50冊くらいに過ぎません。 しかし、これらの中には、古田武彦さんの著作はもちろんのことながら、例えば、古墳の森浩一さん、古代技術の 志村史夫さん、銅鐸の臼田篤伸さん、アジアの歴史の堀敬一さん・ 井上秀雄さん、九州・朝鮮の人文学の参考になる金達寿さん、 司馬遼太郎さんのそれぞれの著作、これらを私の武器とし、インターネットで読ませていただける古田史学の会の皆様の発表論文などを弾薬として行こうということにしました。

【上の絵は孫が書いてくれた武器のイラストです。これだけではちょっと中途半端だと思い、寅七が下部の土壌部分に古田武彦の名前をローマ字で書きこんだものです。】

 閑話休題。
 それで、 槍玉に上げよう、と思いますのは、以下の著作です。

・教科書関係。扶桑社の歴史教科書・まんが日本の歴史がわかる本・家永教科書・福岡県の歴史などの本。
・有名作家の歴史本。高木彬光・黒岩重吾・豊田有恒・邦光史朗・永井路子の方々の著書を。
・歴史学者の著作など。安本美典さんはじめ目についた方々の本も。
・古田学説に賛成に見える方々の本も

 これらの方々の著作を槍玉に上げ、世の人の理性的な常識による判断を、ネット上で仰ぎたいもの、と思います。出来れば、月2本を槍玉に上げるようなペースでこの研究会を運営していきたいと思っています。


プロローグその4 「天からの助け舟」

 この研究会の立場をどう説明したらよいのか、いろいろ考えました。 古田さんのご本も何度も読み返し、文庫本だったのですっかり擦り切れてしまいました。 企業でのレポートなら何とかできますが、サテと考え、原稿を書いてみては破り、でしたが、神は見捨て給わず、で、この3月中旬に学士会会報が到着しました。

学士会報何気なく開いてみますと、「 古代史史料批判 古田武彦」と目次に大きくあるではありませんか! これに縋れば、私たちの研究会の立場の説明は、全てOKとばかりに、肝心な点を昔のリーダースダイジェスト版並みに、抜書きさせていただきましたのが下記です。

 論文全体の30%位に縮めていますので、機会がある方は是非、学士会報No857 2006-II をお読みになっていただきたいと思います。

           「九州王朝の史料批判」抄録   文責 棟上 寅七
 

私、古田武彦は、九州王朝説を、三十余年来提唱して来ました。学術論文や著述を通じて、その論点を明らかにしてきましたが、学会の応答は無くて、そのために自他に迷惑をかけています。そこでその本質を簡単に述べ、識者の前に提示したいと思います。

 
その第一 は金印です。
 後漢の光武帝から授与された金印が、天明四年志賀島で発見されました。又、この金印出土の博多湾周辺から、漢式鏡が百数十面出土し、日本列島全体の、弥生遺跡出土の90%以上を占めています。 つまり、「金印」出土地という点は、「漢式鏡」出土地域という面の中に存在しています。この一点が重要なのです。なぜなら、金印が授与された、倭国の中心王朝の所在地を明示しているからです。

 その第二 は、三種の神器です。
 記・紀の神代巻にも特筆されていますが、それは現在の天皇家にも至っています。その出土領域もまた、博多湾岸周辺に集中しています。吉武高木などの王墓群です。これが弥生時代の王朝でないとしたら、「(弥生の)日本列島に王朝なし」とする以外ありません。 三種の神器を奉ずる、現今の天皇家の淵源も、一切不明となることでしょう。歴史の消失です。 

 その第三 は、神話の史実性です。
 記・紀の神代巻に出現する国名は、出雲と筑紫の両国が圧倒的です。考古学的出土状況もまた、これと同じです。筑紫(福岡県)の出土が質量共に抜群です。 漢式鏡・璧・銅矛・銅戈・ガラス勾玉・鉄器等、弥生時代には筑紫が他を圧倒しています。出雲もまた、荒神谷・加茂岩倉の二大出土以来、銅鐸・銅矛(剣)などの、抜群無類の出土領域となりました。これによりまして、記・紀の両国特記と、出土物の両国突出状況と、この両者は一致しました。つまり、記・紀の神話は弥生の史実を背景としていたのです。

 その第四は、天孫降臨の史実性です。
 従来記・紀の天孫降臨の地は南九州の連峰の地とされていました。近年の相継ぐ発掘によりましても、その地の周辺に三種の神器は絶無でした。そこには致命的な欠陥があった訳です。 日本書紀では確かに南九州の「日向」だけれども、古事記では「筑紫の日向」だったのです。筑紫は福岡県です。全九州なのではないのです。その筑紫の中の「日向」は「ひゅうが」ではなく「ひなた」でした。日向山、日向峠、日向川があって、その川が室見川に合するところに、最古の三種の神器出土の王墓、吉武高木遺跡があります。 日向山の隣には「クシフル峯」があります。この峰は、先の五つの王墓に取り巻かれています。つまり、この「天孫降臨」記述は、現地(筑紫の日向)の土地鑑にたっていて、考古学的分布状況とも見事に一致し、対応していたのです。津田左右吉がいうような六世紀の天皇家の史官などが空想で「造作」できるものではありません。
(壱岐対馬地方からの矛を武器としての侵略と推定される―棟上記)

 その第五 は、「祭祀」問題です。
 近畿には、大和を中心に天皇陵が濃密に分布しています。これらの陵墓は生きている墓として、保護され祭られ続けてきています。あの伊勢神宮も垂仁天武の時代に(天照大神が)奉置されながら、21世紀の現在でも、同じく天皇家の祭祀を受けています。 「祭祀」の本質は継続なのです。これに反する領域、それが先述の博多湾周辺の三種の神器の五王墓です。筑後川流域に分布する装飾古墳や、神籠石山城群も同様、「発見以前」に ”祭られていた”形跡は皆無なのです。「生きている陵墓」と「死んでいる陵墓」、との両者はそれぞれ、”生き残った王朝 と滅ぼされた王朝”の存在の生き証人なのです。

 その第六は、「筑紫都督府」問題です。
 「倭の五王(讃・珍・済・興・武)」が「使持節都督」の称号を持っていたことは著明です。その都督の拠点は「都督府」です。 では、日本列島内で「都督府」の名称の存在するところはどこでしょうか。文献上、日本書紀、にもあり、現地遺称も残っているのは「筑紫都督府」しかありません。大和都督府・難波都督府など、文献にも、現地遺称ともに全くありません。この史料事実から見れば、5世紀前後の倭国の王者の拠点がいずこにあったか明白です。筑紫なのです。

 学問とは仮説の検証です。大胆に仮説を立て、緻密に検証する。その帰結は天の知るところなのです。一つは「近畿天皇家中心の一元主義」。一般には(明治以降)これは不動の定説のように見られて来ましたけれど、学問的には当然、一個の仮説なのです。  一つは「九州王朝」説。これもまた、一個の仮説です。
 この両説のいずれが、先述の六個 の疑問に答えることが出来るでしょうか。回答は明らかです。「 九州王朝」説なのです。

 敗戦前は、いわゆる「皇国史観」が不動の大前提とされてきました。が、それは、「敗戦」という政治的・軍事的事件によってはじめて ”葬り去られ”ました。

 しかし、今、再びそのような”他動的な圧力”によるのではなく、ひたすら人間の内なる自明の理性によって、可を可とし、否を否とすべきではないでしょうか。それがわたしたちの、人間としての名誉であると思われるのです。 



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 書く内容の方向が決まったからといって、ホームページを素人同然のわたしに簡単に開けるわけがありません。ホームページを開く、といってもどうすればよいことやら。とりあえず、「ホームページビルダー」なるソフトとマニュアル本を購入して勉強開始です。2ヵ月ほどは頭の体操が続きました。高校同窓会のホームページを運営している、級友Sさんにはいろいろ教わりました。

 パソコンは、もう20年以上前のことになりますが、長女から成人式の振袖よりもパソコンが欲しい、とのおねだりがあり、父親との共同使用を条件に、当時のパソコンの売れ筋ナンバーワンNEC9800を買うことにしました。今から考えると、パソコンが幾何級数的に安くなったのには改めてびっくりします。当時は随分高いものでした、たしか百万円近くしたという記憶があります。娘と一緒に秋葉原から北沢の社宅まで、電車に乗って担いで帰ってさっそく二人で組み立てたのも楽しい思い出の一つです。
 
 以来まあ一応のパソコンの基本ぐらいは認識できていました。ですが、パソコンをいじったといっても、年賀状など挨拶状作成や、ゴルフの成績表作りくらいのものです。キーボード操作といえば、PC歴四半世紀なのに、まだ雨だれ式のポツポツ打ちです。両手指を別々に動かす能力に欠けているのでしょう。

 しかしなんとか、HTML文書などの新しい言葉や画像処理の仕方などかなり面倒でしたがクリアー出来、ブロバイダーさんと契約も済ませ、結局、準備が整うまで2ヵ月くらいかかりました。後に述べます、ブログを開設するための労力に比べると、ホームページの方が十倍は面倒でした。

 インターネット文章は横書きですから、読むのには縦書きよりも若干苦労するものの、色や大きさが多様に簡単に使え、画面の明るさも手伝い読み易くはなっています。古代史などの硬い論文をいかに柔らかくするか、頭を捻りました。やっていくうちにすこしずつ知恵がついて、文字の色分けで、著者の主張と批判文をそれぞれ色分けしたり、問題点とその回答などを表にしてみたりしました。

 ネット特有のリンク貼り手法も多用して文章のスリム化を試みました。リンク貼りといいますのは、例えば「古田武彦」という文中の語句にアンダーラインがあり、色が青色の場合、そこをクリックすると、ネット上の詳しい解説のページが開くような仕組みのことです。

 もう一つの「古代史本の批評」の問題点は、書き始めてから気付きました。所謂、「書評」的なものではなく、「文芸評論」的なものを求められるということでrす。

 普通、新聞や週刊誌などの「書評」は、その本を「読むであろう」「買うであろう」可能性のある人に「その気を起こさせるため」に書かれます。したがって、内容紹介は、極めて簡単でOKですが、今回の場合は、「文芸評論」的に、詳しく内容を取りだして示さなければなりません。おまけに、このホームページの読者はこれらの本を殆ど読んでいない、ということを前提にして批評しなければなりません。

 タダでさえ理解しにくい事柄を、著者が主張している内容を説明し、その部分の批評をしていく、とても読んではもらえないのではないかなあ、と後ほど述べますが、ホームページのコメント欄に読者からの激励が入ることが、どんなに心強かったか知れません。


さて、タイトルをどうする?

 次に古代史をテーマとして、タイトルをどうしようか、誰も素人の歴史本の批評など洟にもかけてくれないでしょう。おりしも世の中は「日本・中国・韓国の歴史認識問題」でもめています。特に、扶桑社の歴史教科書が争点になっています。

 そうだ!「新しい歴史教科書」というタイトルを借りたら、間違って見てくれる人もいるのでは!ということで、タイトルは「新し歴史教科書(古代史)研究会」ということになりました。

 しかしこれだと、古田武彦さん派の方々からは逆に、拒絶反応を起こして見てもらえないだろう、とタイトルの横に次のような説明をいれました。【「新しい歴史教科書(古代史)研究会」のホームページにようこそ 古田武彦さんへの勝手連的応援団HPです。古代、筑紫に王朝ありき】と。


次にペンネームです。

 実名ですと、あのゼネコンの番頭が古代史を論じるとはな、へーっとなるのは必定です。本名をアナグラム手法で変換してみました。ナカムラミチトシを組み替えていくつか名前が得られました。例えば、簡単なのは村中利道だとか、十勝村梨実だとかで、ムナカミトラシチもその一つです。

 寅七、嘘っぽくてよいか、国民的アイドル寅さんにも通じるし、家内の父の名もトラジロウ(乕次郎)でしたし、というわけでめでたく棟上寅七の誕生となりました。


第二章 ノリキオ画伯の誕生


 他人のホームページを覗いてみましても、文章だけのホームページは無味乾燥的で面白くない感じです。
 文章は、家内が「あなたはしゃべるのは早口で、上手とは思えないけれど、文章の方はまあまあ」と言ってくれるのに自信を得て、厚かましくホームページの大量な文章に立ち向かうことになったのです。男は女のおだてに古今通して弱いようです。

 今回この「まあまあの文章」を折角世に送出しますので、ず~っと昔「建設業界」という雑誌に掲載された「孫の名を付ける」を、寅七の文章レベルを知っていただくのと、棟上寅七の家族構成を知っていただく参考として、事のついでに巻末に付録の付録に載せています、ご笑覧ください。

 ところで、写真はデジカメで自分で撮るにしても、イラストが欲しい。パソコンのお絵かきソフトを使って自分でやるか、という考えがチラッと掠めましたが、その方面の素質がないことは充分承知、己を知っているつもりです。そうだ!孫の一人が絵がうまいからイラストを描かせて読みやすくしよう、と考えつきました。

 まだ中学三年ですが、中学校の学園祭のポスターやパンフレットの表紙などをみても、欲目でしょうが使えそうです。文章担当の寅七さんのレベルも大したレベルではないので、もったいないくらいでしょう。バイト代は出すよ、どうだと話すと、うまく乗ってくれました。

【上は、中三の孫が描いた寅七がビールを狙っているがちゃんと奥様が見ているという図】

 同じく、通っている中学校の文化祭のプログラムに採用された孫のイラストもご紹介しておきます。孫自慢のジジ馬鹿ぶりを遺憾なく発揮しているところです。
合唱祭
 孫殿は、ペンネームは自分で考え、姓を分解してノリキオとし、NORIKIO画伯の誕生となりました。

 家内が孫に「なぜノリキオなの?」と聞いています。「イチコママ、僕の名字は○○でしょう、だから、分解するとノリキオになるでしょう」「ふーん」と電話のやりとりでも納得のいかない様子に、私が横から紙に謎解きをしたら、やっと納得できた様子です。

 皆さんにはすぐお判りか、と思いますし、脳の体操のために解答はしばらく伏せておきましょう。まず、ホームページのトップに載せるイラスト「古代史探検隊」を描いてもらいました。(ホームページのトップページ上部をかざっています。後出)

 まあ、ネットに出してもおかしくはないか、などと批評しますと、家内は、あなたの文章よりず~~~と良い、手放しの褒めようです。ということで、めでたくノリキオ画伯の誕生です。

 ただ、誤解していただくと困るのですが、ノリキオ画伯といいましても当時中学三年生で、日本史に興味があるわけでもないし、古田武彦WHO? という感じです。

 始めて、もう三年になるのですが、ノリキオの興味は古代史には向かわず、絵画に向かっているのは、果たして彼の人生にとってよかったかどうか少し心配です。家内は「絵では食べて行けないよ、絵描きなんて死んでから値打ちがでるんだから。ちゃんと何か資格でもとらないと」などと云っていましたら、「じゃ、英検一級を取っておこうかバイトに役立つかも」など目指す方向は絵画の方向のようです。

 従いましてイラストの構想を伝えて文章にあわせるために、キャプションを付け加えたり、あるときには、パソコンで分解して再構築などもしました。

 たとえば、道草その10「安本美典 虚妄の九州王朝」批判に、「古田武彦という人が罵詈雑言を浴びせかけられている」という私の注文に描いてくれたのイラストが次の左側イラストです。

 これでは安本美典さんが発した強烈な罵詈雑言を表現するにはよわいな、と思って、ノリキオに了解を取って、その絵を分解し文字や部品を追加して右側の絵のようにしました。

 ノリキオにしてみれば、おじいちゃんの趣味にまあ、つきあってやるか、という孫ごころからのホームページのイラスト描きでしょう。
 将来、古代史に彼の興味が向くかどうか、それを期待するのは贅沢な望みというものでしょう。




第三章 ホームページの肝心の内容は?

 

 あとは、本論、棟上寅七の文章です。

 何を批評の対象にするか、手持ちの古代史本だけではせいぜい十冊くらいです。まず対象の本を二十冊決めよう、と街の書店やネットでアマゾン書店などで探してリストアップしてみました。

 小説家の歴史本、古代史・考古学者の著作を中心に、出来るだけ有名な人を、と思い集めてみました。時には、あまり有名でない教育関係の人も混じったりしていますが、まあ一応これでスタートして後は適当に追加したり削除したりすればよいか、と上げたのが次のリストです。

 槍玉に上げる本のリスト (「書名」 著者 出版年順)


 『朝鮮』              金 達寿   1958年
 『騎馬民族国家』        江上波夫  1967年
 『古代史疑』           松本清張  1968年
 『邪馬台国の旅』        邦光史郎  1976年
 『倭の五王の謎』        安本美典  1981年
 『古代天皇の秘密』       高木彬光  1987年
 『異議あり日本史』       永井路子  1989年
 『古代史紀行』          宮脇俊三  1990年
 『壬申の乱』           亀田隆之  1993年
 『逆説の日本史』        井沢元彦  1993年
 『古代史の真相』        黒岩重吾  1993年
 『虚妄の九州王朝』       安本美典  1995年
 『マンガ日本の歴史がわかる本』   小和田哲男 1995年
 『福岡県の歴史』    川添昭二他 1997年
 『日本の誕生』      吉田 孝   1997年
 『磐井の乱』       田村圓澄他 1997年
 『古墳とヤマト政権』         白石太一郎 1999年
 『天皇はどこから来たか』      長部日出雄 2001年
 『銅鐸から描く弥生時代』      佐原 真他 2002年
 『抹殺された倭王たち』        武蔵義弘  2004年
 『卑弥呼の国はマイナーだった』  宮本禎夫  2004年
 『歴史から消された邪馬台国の謎』豊田有恒  2005年
 『新しい歴史教科書』      藤岡信勝  2005年(未完)
 『石川日本史』           石川晶康  2005年


 準備に約3ヶ月かけて2006年3月なんとかスタート。
 ともかく船出しました。ホームページのトップ頁(の一部)です。



第四章 船出はしたももの


 船出はしたものの、しばらくして高校時代の友人から、ホームページを見たけれど、古田武彦さんの著作から勝手に引用したり、論文を抄論と称して勝手に編集したりして大丈夫なの、というご指摘です。

 特に、プロローグの中で、古田武彦さんが丁度学士会会報〇六年IIに「古代史史料批判」という論文を出され、これは寅七の武器になると思い、さっそく、「天からの助け舟」という文を書き、その中にその論文の「抄論」という形で掲載したことに対してのご指摘です。

 その「天からの助け舟」は、第一章のプロローグその4にみられるように、確かに問題あり!です。
 このことについてどう対処したのか、ホームページのエピローグに次のように書いています。


「エピローグその1 古田武彦さん」

 まだ始まったばかりで、エピローグとは、と訝しく思われるかもしれません。このホームページの読者の方から、次のような問い合わせがありました。

 「古田武彦さんの著書をいろんなところで引用したり、抄訳と云って適当に文章を切り取ったりして、大丈夫なの?」と著作権上の問題についてのご心配でした。このホームページを始めるにあたりまして、第一の心配はその点でした。

 ネット上から写真など勝手に切り取って転載はしてはいけない、ということは分かっていましたが、第一の心配はその古田さんの著作の点でした

 ヤフーなどにサイト登録する時に、「古田武彦さんの勝手連的ホームページです」といって登録は出来ましたが、それで済むものではないことは重々承知しています。

 とりあえず、古田史学会が取り仕切っているような感じでしたので、「一応このようなHPを立ち上げました。何か問題と思われるようなことがありましたら、このアドレスまでご連絡下さい」と事務局長さんにメールしておきました。(半年程経って古田史学の会に入会させていただきました)

 しかし、心配です。ネット上のちっぽけなHPが、古田先生のお目に止まることもないだろうとは思いながらも、もし何かあったら、八十歳を過ぎられた大先生です、どんなところで、大目玉を頂戴するかも知れません。

 考えた末、思い切って、プロローグから槍玉3までをプリントアウトしまして、「ホームページの趣旨と、ご著書の引用を勝手にしていますが、お許し下さい」 との手紙を付けて、私の正体を露わにして、ご自宅にお送りしました。

 メモ帳を見ますと、平成十八年五月二十六日のところに「夜古田先生より電話」とあります。「手紙見ました。カラフルでなかなかいいね。どんどんやってください と思いがけない激励のお言葉でした。

 「
最近の、朝日新聞の、太宰府から出土した孚石部の文字の標識の記事、について読みましたか」、とお尋ねがあり、幸い読んでいましたので、話についていけたわけですが、「あれは孚石部でなく孚石都ですよ。都は津と意味云々・・」ということの説明がひとしきりあり、又、兵庫で出土した木簡に、所謂九州年号が出た、いよいよ通説の方々は、説明に困るのでは、など、初対面(談)の私に、随分と長時間気さくにお話しをしてくださいました。

 その後、六月に入って再び電話が鳴りました。私が、槍玉リストに松本清張 古代史疑」を上げていたのにお気づきになられたのか、「京都のミネルバ書房から なかった という雑誌が昨秋出ています。それに松本清張への書簡という形で、『古代史疑』について私が書いている」 という趣旨の話でした。お蔭様で、先般、拙論ですが、槍玉その九「松本清張 古代史疑」をネット上に出すことが出来ました。

 以上の経緯は、このホームページが使命を終える時の、エピローグに取っておこう、と思っていましたが、いつエピローグを書く時が来るか分かりませんし、私も、神様からいつお呼ばれするか分からないので、ともかくエピローグその1として出しておきたいと思います。

 ということで、頭書のメールをいただいた方へのご説明を兼ねまして、報告とします。
           (以上、ホームページ エピローグその1 より)



第五章 寅七はどんなことを書いているのか

 ところで、古代史関係の本についてどんなことを書いているのか、とりあえずサンプルとしてお見せしましょう、と思ったのですが、第三章の末尾のリストに上げましたように、量が結構多いし、又いずれ「寅七の古代史本批評(仮題)」として一冊にまとめたいと思っていますので、今回は、いくつかの本の批評の概要のご紹介をいたしておきます。

(尚、実際の原書房から出した本には、以下の「槍玉原稿のサンプル」には、図やイラストは製作費との関係もあり付けていません。今回のネット版のみの掲載です。)



槍玉その3 安本美典『倭の五王の謎』

 この倭の五王の謎を書かれた安本美典さんは、高天原九州甘木説を唱える、有名な古代史研究家です。安本さんは、特にコンピューターを利用した、統計文献学という新分野を唱えられました。

 古代の天皇の寿命が長いことへ、その統計学を持ちこまれ、古代の天皇の平均在位年数を推計されました。それによりますと、平均在位は十年少しであるとされました。それの基づけば、宋書にある倭の五王、特に倭王武は雄略天皇に間違いない、とされます。

 私は、安本さんが、在位年代を、親子間と、兄弟・夫婦間とでは、質的に異なるのに、ゴッチャにしているのはおかしいのでは、と疑念をいだきました。

 それでは、安本理論を検証しましょう、と、安本さんが定点とされた用明天皇を2代ずらして推古天皇へと動かしてみました。安本さんの平均在位年を使って検証しました結果は、雄略天皇の活動時期が倭王武の活動時期と39年もずれてしまいました。

 結局、武と雄略天皇の活動時期を合わせるための小道具として、統計文献学による古代天皇の平均在位年が使われたのではないか、ということを明らかにしました。
検証結果の図



槍玉その4 邦光史郎『邪馬台国の旅』

 表題が「邪馬台国の旅」、とありますように、いろんな邪馬台国とされた場所に旅行案内しよう、という著者のサービス精神がよく読みとれる本です。この本の評価されるべきところは、古田武彦さんの著書『「ツアーガイド邪馬台国」はなかった』、を肯定的に捉えた小説家としては最初の方ではないか、ということでしょう。

 しかし、何が問題かと申しますと、邪馬台国論はそもそも、『魏志』倭人伝の記事の解釈から、その所在がいろいろと解釈されて議論百出になったのです。倭人伝には、その邪馬台国の行路記事以外にも、3世紀当時の倭国の状況が極めて豊富に述べられているのです。

 私達の祖先は、身綺麗にし、挨拶もきちんとし、男女の仲も乱れていないし、街には市も立つし、租税徴収もなされている、宮殿は高楼が立ち、兵士によって守られている。など詳しく書いてあります。

 ところがどうしたことか、邦光さんは、当時の倭人を野蛮人のように描写するのです。未開の状態で、動物同様の暮らしで、男女の交際もいかがわしい、など、まったく倭人伝を読んでいないか、倭人伝の記事は全くのでたらめ、という立場でこの本が書かれていることに疑問の声をあげました。

 邦光さんは邪馬台国久留米説をいわれますが、その根拠は示されていません。
 大家の先生方の通説をうまく取り込み、古田武彦さんにも理解を示すという、万人へのサービスを振りまいて売れる本に仕上げた、ということが出来るだろう、と結論しています。



槍玉その6 高木彬光『古代天皇の秘密』

 高木彬光さんは、推理小説家の巨匠、ミステリーの魔術師といわれた方で、一九九五年に七十五才で亡くなっておられます。

 高木彬光さんが創りだした神津恭介は、江戸川乱歩の明智小五郎と同様、日本の名探偵といわれます。今回も、この神津恭介が、怪我で入院中に、小説家松下研三と若い歴史学者を助手に、日本古代史の謎を解こうというものです。
ミステリーの魔術師
 その謎と神津恭介の答えは、
 ①邪馬台国はどこにあったか、九州の宇佐だ。
 ②九州の勢力が近畿に東進したのか、神武でなく応神天皇が東征した。
 ③高天原は何処か、最初は朝鮮半島、で後に九州甘木だ。
 ④中国の史書に四世紀の倭国の記事がない、この時期に邪馬台国は消滅し、大和に移った。
 ⑤宋書の倭の五王の倭王讃は応神天皇プラス仁徳天皇で、倭王武は雄略天皇だ。

など、江上波夫先生の騎馬民族国家説を下敷きにして、安本美典さんの高天原甘木説を取りこんだような説となっています。

 この中で、今まで俎上に上がらなかった問題、邪馬台国宇佐説、および謎の4世紀問題を中心に、名探偵神津恭介の謎解きの誤りを指摘しています。



槍玉その7 宮脇俊三『古代史紀行』

 宮脇俊三さんは、もともと作家ではなく、鉄道マニアの中央公論編集長として世に知られていた方です。
この本、古代史紀行は、史蹟・旧跡を巡る旅の本として、知性と教養に裏打ちされた見事な紀行文、という書評を見かけました。

 この本が紀行文なのになぜ批判の俎上にあげるのか、といいますと、宮脇さんが中央公論の編集長として長年培ってきた、歴史学会アカデミズムの学者先生方との間で醸成された、いわば日本通史の史蹟巡古代史案内人りという本なのです。

 邪馬台国はどこにあったのか不明、神武天皇は架空で崇神天皇と同一人物だとか、倭の五王は倭王讃が仁徳天皇で、倭王武が雄略天皇である、とかいろいろ問題があるのです。

 この紀行文批判は、神武が果たして架空なのか、後代の造作なのか、に絞って検討を行いました。古事記の大阪湾でのナガスネヒコとの戦の状況、特に、古代の大阪湾の記述からみて、後代に造作されたのではない、と論じ、神武の東征話は伝承されてきたものだ、と結論付けています。

 全体で二千字程の『古事記』の神武東征の記述を、読者にも読んでみたらどうか、そして、後代の創作かどうか判断してみてもらいたい、と結んでいます。



槍玉その9 松本清張『古代史疑』
http://www6.ocn.ne.jp/~kodaishi/momokaraumareta.jpg
 邪馬台国論争の花形は何と言っても松本清朝さんでしょう。清張さんは、この『古代史疑』で明治以来の膨大な研究史・学説史を独自の視点で整理し、『魏志』倭人伝に新たな解釈を示した、とされます。

 この『古代史疑』は、中央公論に連載され、古田武彦さんが仰るには、清張さんが倭人伝を原典のまま解釈する、というので、原文通りに邪馬壹国と出てくるか、と期待した。しかし、壹は臺の誤り、と通説に寄りかかっているのをみて、結局自分でやるしかない、と決断されたそうです。

 その結果として、名著『「邪馬台国」はなかった』が誕生した、という思わぬ成果もあります。この辺のいきさつについては、古田武彦さんが「なかった」という雑誌で「敵祭」という題で連載されています。

 ところで、中国では、古来七五三という数字が好まれた、とか、倭人伝は先行史書を著者の陳寿が切り張りして作り上げたものなど、ちょっとおかしいなと思っても、国民的作家の松本清張さんに決めつけられますと、古代史の素人の私達には何も言えなくなります。

 そこを敢えて問題点を取り上げ検討しました。問題点とした点は61ヵ所に及びました。ホームページの巻末に一覧表をつけています。

 これらの諸点が、如何に道理に反しているか、古田武彦さんの見解を引用しながら述べています。また、この間違った見解、特に”『魏志』倭人伝はいい加減な史書”という松本清張さんの解釈が世の中に出て、多くの亜流の邪馬台国論者が叢出することになる、という悪影響も出ていることを指摘しています。




槍玉その13 豊田有恒『歴史から消えた邪馬台国の謎』

 豊田有恒さんは、SF作家でデビューされ、その後、歴史物へと進まれたようです。
 「邪馬台国」の文献は、普通、『魏志』倭人伝、と紹介されますが、実際は、『三国志魏志』「東夷伝倭人の条」です。倭人については、倭人の条だけでなく、東夷伝全体から理解しなければならない、と豊田さんはまっとうな主張をされます。
豊田説による後漢時代の倭の領域
 この本では、大半を、その東夷伝の紹介にあてられています。しかし、『魏志』倭人伝の説明の途中で、『後漢書』による倭国の説明となります。

 その『後漢書』の説明の一部「委奴国は倭国の極南界也」という語句の説明から、「倭国は朝鮮半島の南部と九州北部からなり、金印をもらった委奴国は倭国の一番南に位置する」と主張されます。その認識の誤りについての説明がこの批評の中心です。

 この極南界問題に続き、野性号実験航路問題、魏使の卑弥呼の都への行路問題などについて、豊田さんの主張に問題があり、道理に合わないことを明らかにしています。特に、極南界問題については、古田武彦さんの「その南界を極わむる也(や)」と読むべき、という説の方が、理が通るということを説明しています。




槍玉その15 井沢元彦『逆説の日本史(古代黎明篇)』


 井沢さんは今売れっ子の歴史小説家です。この『逆説の日本史』も週刊ポストに1992年から現在まで、長年に亘って連載されています。その内の、「古代黎明篇」に、正しい認識をされているかどうか、検証を試みたものです。
 
 井沢さんは、言霊の力、和、怨霊、穢れ などを日本人の感性の基い、とされ、歴史を解釈されていきます。「和」については、日本は何故倭とよばれるのか、とか、出雲大社や宇佐神宮での四拍手は、死霊を封じるための、死拍手である、などと説かれます。また、卑弥呼はアマテラスオオミカミであり、皆既日食が生じたため殺された、とされます。
逆説は妄節
 これらが、創作・小説の世界でなく、歴史書として出版されていることを問題として、それらがいかに間違った考えから成り立っているかを論じたものです。

 基本のところで、根拠のない仮説を立て、我田引水の論証を引く、というのですから、批評すること自体なんだか馬鹿馬鹿しくさえ思えてきます。言霊とか力説される方の言葉への無神経さが目立つ本でした。

 逆説とは、「一見真理に背いているように見えて、実は、一面の真理を表している表現」だそうですが、この『逆説の日本史 古代黎明篇』からは、このような、一面の真理すら窺い知るところはありません。結論として、逆説の日本史、でなく、妄説の日本史である、と断じています。




槍玉その十九 安本美典『虚妄の九州王朝』
ノリキオ画 蜃気楼
 この本は、「独断と歪曲の古田武彦を撃つ」と副題され、『「邪馬台国」はなかった』に始まる一連の古田武彦さんの著作に対して、安本さんが全面的に批判を展開された本です。

 この本は、古田さん派に対する非常に悪罵・嘲笑的文章に満ちていて、それをひとつひとつ取り上げるのも大人気ないので、次の安本さんの古田武彦批判項目などに対して、極力理性的に検討し見解を述べました。

その安本さんが主張する項目は、
 ①九州王朝の、文献がないじゃないか
 ②邪馬台国はヤマト国と読める
 ③古田武彦の中国文の読み方がおかしい
 ④アマテラスは卑弥呼である
 ⑤弥生時代の人口分布図から古田説は成り立たない
などです。

 ひどい悪罵嘲笑に対しては、ホームページの寅七のコラム「道草」に、安本さんの「はしがき」の文章をパロディで述べさせていただき、安本さんの悪罵がどのようなものであるかを、ニムロッドの矢としてお返しすることによって読者にお知らせしました。

【右上のイラストは、大ハマグリが吐き出す蜃気楼に卑弥呼=天照大神が見えるの図 ノリキオ画】




槍玉その20  三浦佑之『古事記講義』
口語訳古事記
 三浦さんのこの『古事記講義』は、同じく三浦さんが講談社文庫で出され、爆発的に売れたといわれている『口語訳古事記神代篇・人代篇』を基に講義されるものです。

 この『古事記講義』は、『古事記』には「古代ヤマトにおける英雄叙事詩の痕跡が見いだせる」という伝承文学の面からの切り口で解説されるものです。したがって、取り上げられるのは悲劇的なヒーロー、スサノヲやヤマトタケル、幼いマユワとツブラノオミなどとなります。

 『古事記』が大きく記事を割いている、神武・仁徳・雄略の諸天皇が殆ど姿を見せない『古事記講義』となっています。

 『古事記』の史書としての本来の面を何故まともに取り上げないのか、崇神天皇以前は後年八世紀の造作、という井上光貞さんの説に全面的に寄り掛かってよいものか、と『口語訳古事記』とこの『古事記講義』を共に俎上にあげ検討し、その問題点について意見を述べています。



槍玉その22 白石太一郎『古墳とヤマト政権』

 古墳は三世紀後半に出現した。前方後円墳がその象徴的なもので、日本独自に発展した墓制であると主張されます。
 そして、西日本各地に古墳は造営されるが、出現期古墳の最大のものは箸墓古墳であり、次いで、吉備の茶臼山古墳、北部九州の石塚山古墳であり、副葬品などから見てもヤマト政権から吉備~九州の流れになっている、と主張されます。これは文部科学省の教科書の指導要綱にもなっています。
 
 また、東日本は西日本と異なり、前方後方墳が主体であり、古墳期初期の政治体制はヤマトと別であった、とされます。

 これらについて、白石先生の仮説の間違いを指摘しました。



槍玉その25 江上波夫『騎馬民族国家』


 この江上波夫先生の騎馬民族征服国家説は、1948年に発表されました。騎馬文化民族が4世紀ごろ朝鮮半島から九州に渡り近畿で王朝を開いた、という説です。

 このホームページで取り上げた、黒岩重吾、邦光史郎、高木彬光、松本清張、安本美典、豊田有恒、白石太一郎の各氏にもかなりの影響を与えています。
騎馬民族王朝征服説信奉隊御一行
 先生は1991年に文化勲章を受けていらっしゃいます。日本国家がいわばお墨付きを先生に与えているわけです。しかし、先生の説にはいくつもの仮定があります。おまけにその説を支える物証・史料が乏しいのです。

 そのように、朝鮮半島から騎馬民族が渡ってきて、九州から近畿に向かったのであれば、その先祖の偉業をたたえる伝承が残っていてもよいのに、『古事記』や『日本書紀』、古代朝鮮の史書などにその片鱗も見えません。考古学的出土品も見られません。これについて江上先生は、「このいわばミッシングリンクはそのうち見つかるだろう」と言われます。

 そのうち見つかるだろうと云われても、それを「無い」と証明することは難しいことです。そのような、いわば屁理屈に乗っている「騎馬民族征服王朝説」の問題点を洗い出し、古田武彦さんの著作や佐原真さんの著作を引き合いに出して批評を試みたものです。

 以上のような感じで論を進めています。それらにはなるだけイラストを載せて柔らかい感じをだそうと試みました。参考に、最後の『騎馬民族国家』の場合のイラストを掲載しておきます。

【右上:騎馬民族東進中 ノリキオ画】





道草の欄を設ける

 古代史本の批評だけですと硬い話ばかりになります。それで、いろいろその場での古代史についての思いつきを文章にして、ホームページを少しでも親しみ易いものにしたいと、「道草」という、いわば棟上寅七のコラム欄を設けました。
 次ににホームページの「道草のページ」を紹介します。
 
 その後、後に述べます「棟上寅七の古代史本批評」というブログを開設しましたので、その後は、その役割はそちらに移った感じになっています。ブログでは書ききれない量の文章が道草で処理されている現状です。






 そのうちの、道草その11 古田武彦さんとの一問一答 および、その12 鎌足と鏡王女の話 は、一応まとまっているお話しになっています。しかし、ここで挿入しますと全体の流れを乱すように思いますので、巻末に付録としてつけておきました。



第六章 ホームページへの不満の声をどうしよう


 ホームページを始めたのは良いのですが、硬すぎる・面白くない、の声声声が聞こえてきました。ホームページを開いたからといって、義理で見てくれるのは親類縁者を除けば昔の仕事仲間達だけです。ゴルフ・マージャン・飲み友達・新聞は専らスポーツ紙の気の良い仲間達です。でも折角の読者。何とかせねばなりません。

 子供・孫達も三カ所に離れて住んでいるし、遠く九州でジジババがどうしているのか、介護が必要なのではないか、などと入らぬ心配をかけない為も兼ねて「ブログ」つまり「電子日記」はどうか?と思い到りました。

 ここのあたりの事情も、ホームページ道草に次のように記しています。



道草 その六 棟上寅七 ブログ事始め

 棟上寅七の筆力不足でしょう、”難しすぎる””面白くない” という批判がごくごく近所から聞こえてきます。いろいろ考えた末、今チマタに流行している、ブログなるものを利用できないだろうか、思い付きました。

 棟上寅七なる普通人が、「古代史」なる大風車に、ドン・キホーテよろしく、立ち向かっているつもりです。その舞台裏情報を流すことによって、少しは同情票的読者も獲得出来るのでは、という浅ましい下心から始めたわけです。

 案ずるより生むは易し、でホームページを開いたときのエネルギーの十分の一以下で済みました。歌手や俳優のヒヨコさんたちが、先を争うようにブログを立ち上げる理由の一つには、この簡単さがあるのでしょう。

 7月末に始めました。大半は他愛の無い日常の書き散らしです。「新しい歴史教科書(古代史)研究会」という立派な名に、どうも恥じるようですが、乞うご容赦。



【例えば、次のコピーが2008年8月11日のブログです】
ブログのコピー

 というわけで、親ホームページに送れること4ヵ月で「棟上寅七の古代史本批評」というブログが誕生しました。

 半分は、ゴルフ・飲み会・旅行・温泉・健康などの、他愛の無い日常を書き散らし、残り半分は古代史の御託を並べています。
 
 おかげさまでブログも殆ど一日も休むことなく、本の批評の方も1ヶ月に1本くらいのペース。

 ブログへのアクセス数は一週間に約1500、研究会のホームページも月500位のアクセス数の現状です。



励ましのコメントと迷惑コメン


 読者の方からも励ましの好意的なコメントも入るようになりました。いくつかご紹介しましょう。

2007.01.20 ヤマダマサキ さん
 トラシチさんのHPを今年からみ始めました。素晴らしい内容で感嘆の一言のみです。が、私も古田武彦さんのファンなので、一か所とても気になるところがあります。古田さんの第一書の署名です。古田さんは邪馬台国はあった、とされます。無かったのは魏志倭人伝の中のみです。それゆえ『「邪馬台国」は無かった』と「  」にこだわっています。訂正されることを望みます。
(ホームページを始めた頃は、入力ミス、チェックミスが多く、確かに仰るような間違い箇所が数カ所ありました。早速訂正してお詫びとお礼のコメントをいれました)

2007.11.11 くろどん さん
 拝啓 棟上寅七様 いつも拝読させていただいております。ところで、福岡県久山町山田の「斎の宮」へ行かれたことはございますか? そこには、時神功皇后が山田の谷に陣を張ったという伝承があり、堀之内という地名もあります。香椎で仲哀天皇、山田で神功皇后が亡くなったとしか思えません。(中略)
 斎の宮は香椎宮の裏山を越したところにありますので、一度足を運ばれたらいかがでしょうか。乱筆乱文お許しください。敬具

(根がずぼらな寅七は、インターネットで検索しましたら、久山町のHPに「斎の宮」が出ていました。所在地・由緒・写真なども出ていましたので、すっかり見てきたような気になって、そのうちに、と思いながらまだ足を運んでいません)

2008.04.23 シュウ さん
 3月30日の「古代人からの恩恵 三軸織」のブログ記事について
 
朝日の天声人語からやってきました。「三軸織」のこと。今日初めて知りました。しかも、縄文人の技術とは実に驚きました。ウイキペディアにもまだ載っていないようですね。毎日新発見があって、世の中は不思議なとこです。古代の情報ありがとうございました。

(なぜ、唐突に天声人語が出てくるのかなあ?とも思いましたが)

2008.4.23 マキ さん
 ウイィキペディアの古田武彦さんの項目を見に行きました。確かにひところに比べてソフトな表現になっていますね。関連HPの欄に寅七さんのHPがリンクされていて大変うれしかったです。

 22日午後7時、東京12チャンネルの歴史バラエティで、関東にあった日本国、というタイトルで旧唐書日本伝を証拠に、埼玉古墳群が日本国の史跡であり、その証拠を求めて発掘調査をするのだ、という紹介がありました。(倭国伝は大和朝廷のことのようです)結果に興味があります。


 褒めるコメントばかりでなく、お叱りもあります。07.03.12の「批評の品格」というブログの記事に対して

2007.06.17 無名 さん
 人の文章のパロディを公表するのは下品ではないのですか?
(この「人の文章のパロディ」とは、安本美典さんの「虚妄の九州王朝」での古田武彦さん批判の前書き部分をパロッたものです。HP本論ではなく、お遊びの道草ページに載せたのですが・・・)

 Eメールでも迷惑メールがどんどん入りますし、迷惑メールブロックの措置を採っても後を絶つのは難しいのは、インターネットをされる皆さんはよくご存じのことでしょう。

 それがブログになりますと、コメント欄への迷惑コメントとなってきます。Eメールでしたら、読むのは自分だけで、気分を悪くするのも自分だけ我慢すればよいのですがブログの場合はそうは行きません。

 ブログの読者のみなさんが読んで気分を害されるわけです。世の中になんでこんなにバカなことに熱中するヤツがたくさんいるのか、信じられないくらいです。

 ただ、コメントが入る場合は、ブロバイダーの方から「コメントが入っている」とのメールが入ってきますので、パソコンのそばにいる場合にはすぐに削除はできます。削除して、そのコメントを入れたIPアドレスを禁止IPアドレスに指定すると、少なくとも同じ所からのコメントは入るません。

 いままで禁止IPアドレスに指定したアドレスの数は50以上でしょう。今の若者のうちの少数なのでしょうが、いろんな不満をこんな馬鹿なことをブログに書き込むことで晴らしているのでしょう、悲しい現実を教えてくれます。この原稿を書き始めたころ、秋葉原で加藤某による無差別大量殺りく事件が発生し、腐った土壌の存在する現実を嫌でも知らされます。

 おまけもありました。

 ジジのブログの刺激からか、長男のお嫁さんが、愛犬のブログを昨秋から始めました。私達の同年代はITに無縁の人は多く、家内もその一人です。しかし、一念岩をも通す、で、嫁のブログを見たさに、インターネットを一応見れるようになりました。

 しかし、禍福はあざなえる縄のごとしで、お嫁さんのブログを見るついでに私のブログをクリックして、チェックがはいるのは痛し痒しでもあります。嫁御のお母様の方はレベルが少し上で、時々コメントまで寄せてくださいます。老人パワー恐るべし、です。後期高齢者などと年齢だけで一様に差別するのは如何なものか、と思う昨今です。



第七章 今後の寅七とノリキオ

 70の手習いで始めた「新しい歴史教科書(古代史)研究会」も3年が過ぎようとしています。この棟上寅七の相手をしてくれた、古代史家・古代史小説家も最近では批判欲をそそられる作品が少なくなりました。これも、古田武彦さんという存在を皆さんが意識することによって、古代史の定説といいますか、近畿王朝一元史観に基づく本が書き難くなったのかなあ、と思われます。

 当方が古びていくのに、古田先生は少しもそのお年を感じさせない精力的な執筆活動、講演活動には驚かされます。凡人にはとてもまねはできません。ホームページを始めた3年前と現在とでは、時間の余裕と反比例して脳の余裕がなくなってきています。

 しかし、この三年間ほど充実した時間を過ごしたことは、大学の教養部時代以来久しぶりのことでした。私の周りもすこしずつ、櫛の歯が欠けるように彼岸に移られますし、もともと I T に無縁の方が多く、言いたいことがあれば、本にして出せ、そしたら見てやる、という人も多い、という現状から、今回この三年をまとめてみました。

 企業人間の残りの人生に生きがいを与えてくださった古田武彦先生には、いくら感謝申し上げても申し上げ過ぎということはないくらいです。そのほか、エールを送ってくださった、科学の目で見えてきた日本の古代のサイト主催の高柴昭さん、高校同期の会のサイトに早速リンクを貼ってくれた白石富士雄さん、古田史学の会のみなさん、などなど沢山のかたの励ましで、続けてくることができました。

 考えてみれば、槍玉にあげた方々も反面教師としての大きな存在があったからこそ、ともいえましょう。失礼な批判の数々も申し上げましたが、おかげさまで充実の時間が過ごせました。お詫びと御礼申し上げます。

 70という区切りの年で企業活動から足を洗う予定でしたが、引きとめる方々がいらっしゃいまして、まだ建設業界の片隅に席を置いています。かえってそのおかげで外部の空気も吸え、濡れ落ち葉にならずに済み、今後も「石の上に3年」で、少しは温まった石の上でノリキオ画白と一緒に過ごせたら、と思っています。棟上寅七と同様にアナグラムで十勝村梨実嬢にも活躍の場を与えるべく準備中でもあります。

 3年前にホームページを始めた時には中学3年生だったノリキオ画伯も、3歳年をとれば大学受験生という立場です。寅七のイラストを欠けばバイト代あげるよ、の甘言に釣られた、しまった!ということに来春ならないことを祈っています。ノリキオ画伯よ、浪人したら、又、イラストのバイトに精を出しますか?

 尚、前述しましたように、ホームページの本論が「寅七の古代史本批評(仮題)」としてまとまるのはまだしばらく時間がかかるかと思います。詳しく知りたいと仰る方はご面倒でも先のホームページにアクセスください。

 ホームページ「新しい歴史教科書(古代史)研究会」http://www.torashichi.sakura.ne.jp/
 ブログ「棟上寅七の古代史本批評」http://ameblo.jp/torashichi/
 寅七とノリキオコンビがご案内いたします。

 古代史とゴルフを楽しみながら、邪馬台国博多湾岸説が世の定説となることを願いつつ、今後も多元古代史観での古代史の勉強を続け、多元古代史観を道しるべに、今後の人生の新しい小道をたどりたいと思っています。

 そうそう、それに付け加えまして、家内の健康管理指導に従って、90歳で90のエイジシュートを達成することを夢見ています、ということを付け加えまして、一応「七十歳からの自分史 私の棟上寅七」の稿とします。

(注:本の出版から7年経ちました。2015年現在の、いくつかの変化を報告しておきます。
①上記のHPのURLは、2015年6月より、ブロバイダー変更に伴い上記のURLに変わっています。
②ノリキオ画伯は無事芸術大学油絵科を今春卒業して、芸術道に励んでいます。
③付録にある、「鎌足と鏡王女」の話は、『鏡王女物語』として2011年に原書房より私家版出版しています。)
④エイジシュートを90歳で達成としていますが、77歳時に76というスコアが出て達成できました。


寅七眷属より あとがきにかえて

ライオンパパ ご出版おめでとうございます S.K

 思えばライオンパパと初めてであったころは、ライオンパパはまだライオンパパではなく、後に私の奥さんになる人のパパでした。

 後でいちこママに聞いたところによると、娘さんが高校を卒業したら九州の大学に入れて、そこで親子三人で暮らすつもりだったのですね。単身赴任が長かったライオンパパにとって、やっと娘さんといっしょに暮らせるという楽しいプランだったのですね。

 それが高校を出てすぐに私と結婚し、さらにアメリカに連れて行くこととなり、さぞかしがっかりされたことかと思います。
しかし、その後は長男が生まれ、次男が生まれ、長女が生まれ、ライオンパパといちこママも何度となくアメリカに来てくださり、一緒にいろいろなことをしたり、いろいろなところへ行ったりと、本当に今思い出しても楽しいことばかりでした。

 うちの奥さんの、ライオンパパから受け継いだ気高さと人徳、いちこママから受け継いだ大きな暖かさ、そしてもって生まれたラッキーさのおかげで、三人の子供も私も、いつも幸せいっぱいでした。そしてそれが、われわれが、我々がライオンパパにできる最大の恩返しであり、また、それができたことに関して、自分ながら非常にうれしく思います。これからも、ライオンパパといちこママのためにも、明るく楽しい家族でいようと改めて気合がはいります。

 さて、本のことについて少しふれます。私には全くよく分からない世界ですが、昔の真実を探るといういみでは、私がやっている宇宙の始まりの謎を解くということに近いものがあります。自分のルーツを探るという共通のテーマだと思います。今後もこのテーマをさらに鋭く研究し、、ぜひとも真実を極めてほしいと思います。

 ではこれからも、いろいろお世話をかけますが、楽しく、楽しく、あくまでも楽しくがんばっていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

【付記】 ライオンパパとは N.K

 主人が「ライオンパパ」と「いちこママ」という、わが家の父母の愛称を説明抜きで使っています。「いちこママ」という愛称はお分かりになるでしょうが、父の方は説明が必要でしょう。

 まだ長男が二歳のころ、絵本を父が読んでやっていたとき、ライオンの母子の絵が描いてありました。しかし、父親ライオンが不在でした。そこで長男が「ライオンのパパがいない」、と言ったのを受け、父が自分を指差して、「ここにいるよ、ほんとだよ、星座もしし座だよ」と言ったのです。それ以来、わが家での父母の愛称は「ライオンパパ」と「いちこママ」になりました。


ライオンとノリキオと寅七のこと 中村通子

 ノリキオ画伯の描く棟上寅七は、なぜいつもライオンの姿なのでしょうか。私の手元に分厚い原稿が届き、仕事の合間にぱらぱあとめくっていたら、かわいいイラストに、思わずにやりとしてしまいました。

 「寅」七ならば、トラの姿でもよさそうなものです。ライオン姿の秘密は、いまから20年近くも前、ノリキオ画伯がよちよち歩きの頃にさかのぼります。

 初孫である画伯は、彼の祖父、私の父を「ライオンパパ」と呼びました。半分白くてちょっと癖のある髪の毛が、ライオンのたてがみを連想させたのでしょう。「おじいちゃん」と呼ばれるより、よっぽど若々しい響きですね。父も大変ご機嫌だったことを覚えています。

 ノリキオ画伯にとって、寅七は、いまでもライオンなのですね。幼いこどもの心にすり込まれたイメージというのは、長い時間が過ぎても褪せないものだと実感します。

 「コンビを組んで三年」と本文に書いてありますが、いやいや、よちよち歩きの頃から培われた長い長い縁でしょう。ホームページの表紙には、ロシナンテにまたがったライオン騎士に、徒歩で付き添う画伯、という構図の絵が掲載されています。浪人しても大学生になっても、サンチョとして古代史放浪の旅に付き添ってあげてくださいね。


がんばれ寅七 あと20年  中村太朗

 「今度、『自分史』のような本をだすから、ちょこっと推薦文みたいなものを描いてくれ」と、寅七から言われた。知人・友人のものであれば、誉めて誉めまくればいいのだろうが、なにぶん、父上様にあたる寅七の、この世に活きた証となる本の推薦文である。持ちあげるだけでは半分手前みそのようで居心地が悪いし、批判的な内容では、寅七のお株を奪うようで申し訳ない。まずは、原稿をしっかり読んで、思ったことを書こうと、至極当たり前のことを考えた。

 【七十歳からの自分史 わたしの棟上寅七】の原稿を、一気に読み終え、感じたことは・・・寅七の「気力充実、まだまだこれから」という、気概というか生気のようなものが伝わってきた。「自分史」と銘打って、人生を振り返り、区切りを打つつもりなのかと思いきや、「今の研究の経過報告と、その内容の紹介インデックスというものであった。今までの研究成果をまとめたホームページの中身を、この本を通じてすこしでも知らせたい、少なくとも親類縁者・知人・友人には・・・という思いが伝わってきた。

 この本をお読みになった方々には、ご購入していただいただけでも感謝しなくてはならないのであるが、さらに、今後とも寅七のホームページ「新しい歴史教科祖(古代史)研究会」をお読みいただき、たまにはその批評に対する批評などを賜れば本当にありがたい。

 寅七本人は、それなりに老いを感じることも多くなり、もう先が無いなどと弱気な素振りをみせてはいるものの、皆様からの研究に対するご意見があれば、あと20年は大丈夫であると思う。

 20年あれば、批評だけでなく、立派な論文も何本か発表できることと考えられる。そして、「真の古代史を究明した人、棟上寅七」として名を残してくれると信じている。がんばれ!寅七!!
 (くれぐれも仕上げを子孫に託そうなどと考えず、一代で成し遂げてくださいね! 私には荷が重過ぎます。)


付録その一

道草の記事よりの二編

道草その11 古田武彦さんとの一問一答


2007年11月3日 pm1時~4時 福岡・志賀島で、地元主催の「金印シンポジウム」が開かれました。
パネリストは次の方々です。
岡本顕實 (元毎日新聞記者)
折居正勝(志賀島歴史サークル会長)
塩屋勝利(福岡市教育委員会文化財部委員)
久米雅雄(大阪府教育委員会文化財保護課)

9月28日西日本新聞 の記事をご紹介します。

授かったのは「奴国」か「委奴国」か 「金印」の謎に迫る 11月、志賀島で公開シンポ 島民ら企画「活性化に」
 『博多湾に浮かぶ志賀島で発見されたが、出土状況などに多くの不明な点を残す金印「漢委奴国王」。謎を探ろうと、同島民らが11月3日、定説に異議を唱える識者を県外から招き、長年調査に取り組んできた地元の研究者らと議論する公開シンポジウムを開く。その後も、主張の異なるパネリストを招いて開催を続け、島おこしにつなげていく考えだ。

今回のシンポジウムは、金印の文字から史実を探ることに主眼を置く。パネリストの大阪府教委主査の久米雅雄氏は、「漢委奴国王」は「奴国」でなく「委奴(いと)国(伊都国)」を指し、志賀島外から出土したとする持論を展開。対する福岡側からは、発掘調査を続ける元福岡市教委課長の塩屋勝利氏らが出席し、定説の正当性を主張する。』

金印シンポジウムは、志賀島上げてのお祭り的な行事になって、小学校の体育館は満員でした。パネリストの先生方は、古田先生が見えておられることを知って、かなり緊張状態のように見受けられました。

時間一杯パネラーの話がありました。発見時の状況・刻字の読みの問題などなど、まあ通説に沿った話でした。質問時間は殆どありませんでした。

質問したいことは沢山あったのですが、パネリストのお一人が、金印は封泥に使われた、と云われたので、それだけは、パネラーの古代印章の権威者久米先生の意見お聞きしたく、無理に質問しました。封泥に使われた証拠はない、紙が使われる以前の中国では使われていた、ということでした。

古田武彦さんは、一般聴講者としてお見えになりました。寅七は縁ありまして、当日お昼をご一緒し、シンポジウム終了後も、コーヒーを飲みながら、いろいろお話を聞かせていただきました。

寅七の各種の脈絡も無い古代史についての質問に、丁寧にお答えいただきました。折角のお話ですから、と、次のように「一問一答」形式にまとめてみました。内容は読みやすいように補足し整理しました。

古田武彦さんとご一緒に




九州年号について

(Q)古田武彦さんは、「失われた九州王朝 1973年」「法隆寺の中の九州王朝 1985年」「失われた日本 1998年」と、それぞれの著書に、「倭国(九州)年号」について書かれています。参考された史書として、最初は本では朝鮮の海東諸国記をメインに、次いで、鶴峯戊申の襲国偽僣考を、後のでは、鎌倉時代の二中歴を使われています。検討を進めていかれた結果、史料の信頼性では二中歴ということでしょうか。
(A)その通り。二中歴が、継体というところから始まり、終わりもはっきりしている。

(Q)「法隆寺の中の九州王朝」で釈迦三尊の光背銘に記せられている元号「法興」について、倭国年号とされ、隋書に出てくる「多利思北孤」の定めた年号とされます。しかし、この法興は「襲国偽僭考」に別系統として記されているようで、「二中歴」には出てきていません。法興という年号のところは、2系列で、隋書が描くタリシホコの兄弟摂政時の年号という理解なのでしょうか
(A)その通り。

(Q)2通りの年号、ということは、2つの権力構造が並列していた、と考えることになりますが。
(A)その通り。

(Q)九州王朝でもなく近畿王朝でもなく別の王朝が存在した、例えば吉備王朝、という別個の王朝とは考えられないのでしょうか
(A)今の史資料からの判断では、それはないと思う。

(Q)2系列の年号を持った王朝はあまりないのではないでしょうか
(A)唐の周(武則天)時代、日本の南北朝などの例がある。

注)古田史学の会報20002月14日号に「両京制について」という古田武彦さんの論文が出ています。http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou36/furuta36.html
 
無文字、唯刻木結繩」について

(Q)隋書俀国伝に「無文字、唯刻木結繩」という記事があります。倭国には百済から仏教と一緒に文字が到来するまでは、木を刻み縄を結んで記録としていた、という記事です。ものの本によれば、インカ帝国は公式記録に「結縄」(キープ)を使っていたとあり、これと隋書の倭人の結縄文化との関連性についてはどうお考えでしょうか。
(A)考えられないことではないし、面白いと思うが、何せ日本に全くその記録・伝承・説話など全く無く、隋書の記載記事だけなので、判断できない。

 銅鐸について

(Q)銅鐸という精巧な鋳造技術が中国からもたらされたとすると、文字も同時に伝わっていたのではないか、と思われるのですが。
(A)銅鐸は、中国での銅鐸の元祖と思われる物にも、文字が残されていない。日本の銅鐸に文字が無いから文字が伝わっていなかった、とは云えないし、伝わっていたとも云えない。鏡には文字を刻する習慣があったが、銅鐸には無かったのかも知れない。

 黄金鏡について

(Q)福岡の一貴山銚子塚の黄金鏡について、考古学会はあまり重要視していない。古田先生は、これこそ王墓の証拠とされる。しかし、熊本にも黄金鏡が、時代は遅れるが出土しています。そうすると、その地にもそれなりの王が存在した、ということになりますが。
(A)黄金鏡は、他に大分でも出ている。それなりの権力者の象徴であったということ。私は銚子塚の黄金鏡の金がどこからもたらされたのか興味がある。成分分析で産地が特定できたら面白い。時代的に、魏から卑弥呼が貰った金8両が使われたのではないか、と推測しているのだが

 前方後円墳について

(Q)その形状から銚子塚と呼ばれるのが多いけれど。
(A)蒲生君平が前方後円墳と名付けそれ以来使われている。私は、どちらが前方とは云えないと思うので、方円墳と呼ぶのが良いと思う。

 金印について

(Q)1世紀の漢委奴国王の金印は、3世紀の伊都国の祖先に与えられた、その後、卑弥呼の国に統属させられたという(久米雅雄説)は、この部分だけなら論理的に古田説と矛盾しないのではないでしょうか。
(A)1世紀~3世紀間にそのような大事件があれば中国は記録している筈だが、中国の史書からは、委奴国~邪馬壱国は連続した王朝としか読めない。

(Q)金印の発見状況に疑問があるとおっしゃっていますが、それについての古田説の正式発表はどのような形でされるのでしょうか。
(A)11月10~11日の八王子セミナーで概略発表の予定。その後何らかの形で一般に発表するつもり。(概略お聞きしました。非常に面白い推理小説並みのお話でした。が、まだ先生が公式発表されていないので、この場で書くことはやめておきます)

 「邪馬台国」はなかった、の復刻版は

(Q)「邪馬台国」はなかった、の復刻本の出版の計画のその後の進展状況についてお聞かせください。
(A)若い人に読んでもらおうと、漢字には出来るだけルビをふることにし、その後の研究の進展にあわせた古田新注を付けたい。今ミネルバ書房から原稿第1稿が来ていて今から目を通すことにしている。なるだけ早く出したい。

 佐賀三日月村について

(Q)甕はミカと読む、卑弥呼も日甕ではないか、と先生はおっしゃいます。吉野ヶ里付近は甕棺の出土が多いことは知られています。ところで、佐賀県小城市に三日月町というのがあります。肥前窯業史という本に、甕棺が多く出土することに触れて、「三日月村は古名、甕調(みかづき)」と甕の生産地と書かれていました。先生はご存知でしょうか。
(A)初めて聞いた。興味ある地名です。

昨日のことですのに、もっと一杯お話を伺ったと思いますが、思い出せるのはとりあえず以上です。又思い出しましたら、追加します。
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追加です!。題して金印の謎ー五方皆得の古田武彦説の概要です。(2007年11月07日 福岡コミュニティ放送 から)

古田武彦さんの「金印の謎」が昨日福岡コミュニティ放送で発表されました。寅七も21時から90分間のお話を聞きました。ですから、もう皆さんに概要をお伝えしてもよいかと思います。

古田武彦さんは、金印の発見についての定説には不審な点がいくつもあり、いくつかの伝承・証言が無視されているとされます。

金印の発見時の古文書、甚兵衛さんから郡役所への口上書の数々の不審点
仙崖和尚の「天明4年丙辰・志賀島小幅」に書かれた内容と「口上書」との相違点
細石(さざれいし)神社の宮司が、金印は神社の宝物であった、という証言
金印は王墓から出ているのに志賀島の田ん圃からという不審(今回の金印シンポのパネリストの塩屋勝利氏は、志賀島の調査を永年行ったが叶の浜付近にはその痕跡は全くないといわれる)
天明時代に井原ヤリミゾ遺跡が発見され、近在の農夫が出土品を勝手にとった、という記録がある(今回の金印シンポのパネリストの久米雅雄氏も言及している)
亀井南冥の子供 昭陽の話として、「南冥が金印を買った」ということが残っている
南冥はその約3年後、理由不明で藩より閉門蟄居を命ぜられ、終生家を出ることがなかった。

以上の諸点をクリアーできる推論として、次のように「五方皆得の話」として古田説を展開されています。

井原・平原などの弥生遺跡(王墓)から出土したのではないか。
金印発見者が地域の神社の細石神社に納めたのではないか。

社宝が、何らかの理由で人手に渡り、売りに出された。
漢学者亀井南冥がそれを15両で買い取ろうとしたが、100両といわれ値が折り合わなかった。

福岡藩がそれを知り、金印の鑑定を、南冥と藩校の修猷館の両者にさせた。
南冥は、中国からヤマトノ国王に下賜されたものであり、出土の経緯を南冥が創作した。

修猷館側は、源平の壇の浦の戦いで安徳天皇が入水された折、紛失されたものが流れ着いたのであろう、とした。
南冥の方が理に適うとされ、南冥は面目を施し主催する学校、甘棠館(かんとうかん)の方の名が上がった。

藩は50両で買い上げ、天下の秘宝を手に入れることができた。
売り手は、おそらく20両くらいで、(社宝を)手に入れたのであろうからかなりの儲けになった

志賀島は那珂郡であり、郡役所の津田源右衛門も面目を施した
発見者とされた甚兵衛も白銀5枚?をもらえた。

このように関係5者がそれぞれ得をしたことになる。

以上です。短波放送を車の中、メモも取れなかったので間違いも多いかと思いますが、ストーリーはほぼ以上のようなことだったと思います。明日明後日の八王子セミナーでこの件で講演され、その後古田史学会報などで正式なものが出ることと思います。

尚、この謎解きは、三浦祐之さん(槍玉その20 古事記講義 で登場いただきました)が、『金印偽造事件』幻冬社新書として今年出版されました。同じような記録・伝承を使って、片や「偽造金印説」、古田さんは「南冥金印出土状況創作説」と全く結論は違っています。だから古代史は面白い、と思います。


         

道草その12 鎌足と鏡王女 棟上寅七が語る眞説


はじめに

黒岩重吾さんの「古代史の真相」の中で、藤原鎌足(かまたり)の謎が述べられています。寅七は昨日、確か新庄智恵子さんも藤原鎌足について書かれていたなあ、と思って本を探して読み直しました。黒岩さんが謎とされる、天武天皇から下賜された采女(うねめ)を何故欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して迎えたのか、長男を何故僧籍に入れ、次男不比等(ふひと)を跡継ぎにしたか、不思議である、とされます。

新庄智恵子さんや古田武彦さんのお話に、寅七の想像も入れて、史書や伝承にも反しない、次のようなあら筋のストーリーが浮かび上がってきました。題して「鎌足と鏡王女」です。

黒岩さんが得意とされた推理小説的な謎解きのお話です。なぜ鎌足は、出自不詳なのにあんなに目覚しく出世できたのか?なぜ鎌足は、天皇からお手つきの女性を下賜されて大喜びしたのか?なぜ鎌足は、長男を僧籍に入れ次男不比等(ふひと)を跡継ぎにしたのか?これらについて黒岩重吾さんは、次男不比等が天武天皇の胤であったのではないか?という推測を述べられているだけです。

それでは、寅七がその謎解きに挑戦してみましょう。(大上段に振りかぶって大丈夫かな?)
幼い頃の鏡王女
(一)
まず、中臣鎌足、後の藤原鎌足は筑紫王朝の俊英官吏であった、という仮定から話は始まります。筑紫の王朝?と不思議に思われる方もいらっしゃるもしれません。中国の史書に古くから「倭人の国、倭奴国、倭国」などとでている王国で、万葉集などで、遠の朝廷として出てきている王朝です。
鎌足の出自について、黒岩さんも述べていますように大織冠伝(たいしょくかんでん)と、大鏡(おおかがみ)という史料では異なっています。前者では、「大倭国 高市藤原」で、後者では「鹿島」となっています。

ここで古代史の「理屈」の話になり堅苦しいかもしれませんが、少し我慢してお聞き下さい。この藤原家の家伝書 大織冠伝(たいしょくかんでん)にある「大倭国」とはどこか、ということが問題だと思うのです。

黒岩さんも、ウイキペデイア百科事典も、もちろん「大倭国」=「大和国」という解釈です。しかし寅七にはそう簡単に決めてよいだろうかと思うのです。この大倭国とは、中国の史書に出てくるあの「倭国」ではないか、と思われるのです。

「大倭国」とは文字に通りに「ダイワ若しくはダイヰ」ではないだろうか。中国語は濁音がはっきりしませんから、「タイワ又はタイヰ」ではないかと思われます。もしそうであれば、話は全く変ってきます。

「大倭」は「大なる倭国」という意味ではないでしょうか。第二次大戦前まで日本は「日本帝国」と名乗っていたのと同じように。志賀島で発見された金印にあるように、中国から「委奴(ゐの)国」とよばれた倭国が、おのれの美称として「大倭(たいゐ)」国と名乗ったのでしょう。

その後、7世紀初頭になって、その「大倭国」から天子を名乗るタリシホコから国書が届きます。有名な「日出ずる処の天子、日没する処の天子へ云々」で始まる国書です。それが気に喰わなかった隋の煬帝(ようだい) は、同じ読みで「弱い国」という意味の「(たい)国」と名付けた、という説(先般久留米大学の市民講座でも、古代史家兼川晋さんが力説していました)は説得力があります。

しかし、大織冠伝にある「高市藤原」という地名は奈良ではないか、と一般に思われるようです。しかし、奈良には高市郡という地名や高市早苗衆議院議員のように「高市」はありますが、「高市藤原」は現存していないようです。

藤原鎌足の出生にまつわる伝説も、鎌足の産湯の井戸と云われるものが、明日香村小原というところに残っているだけだそうです。その井戸も近年の調査の結果、それほど古くはないとされ、出生地は常陸鹿島説が強くなっているそうです。

新庄智恵子さんという方が、その著書「謡曲の中の九州王朝」で、調べた結果を書かれています。新庄さんは、万葉集489の注に「高市崗本宮、後崗本宮」という記事があることから、この特殊の「崗本」の地とは、須玖崗本遺跡の福岡県春日市の「崗本」ではないかとされます。

又、異説として「大鏡」に、鎌足の出自は藤原家伝と異なり「鹿島」としてあることから、黒岩さんも常陸鹿島ではないか、とされるのですが、新庄さんは、佐賀県の肥前鹿島の可能性もある、と指摘されます。福岡と佐賀という両者の近さから、出生地と生育地がそれぞれの伝承になった、と考えられるからです。奈良と茨城ではそうはならないでしょう

このように、古代の地名を現代の地名に簡単に比定することには、いろいろ問題があることを知らされます。これらのことから、鎌足は筑紫(一説には対馬の藤原という説もあるそうです)の出身としても、そうおかしいことではないでしょう。藤原鎌足は九州出身として話を進めます。

(二)
当時、朝鮮半島は、北部の高句麗(こうくり)、南部は東側の新羅(しらぎ)、西側の百済(くだら)と3者が相争っていました。(最近の韓国の大統領選挙の結果を新聞で読んで、現在でも、、北は北朝鮮、南部の東側は現在野党ハンナラの地盤、西は金大中以来のノムヒョン現政権の地盤と、その地域割りが、古代と驚くほど似通っているのに驚いています。)

ところが均衡を破って、倭国と親交の深かった、百済国が新羅国に攻め滅ぼされます。そこで、倭国(筑紫王朝)が百済復興救援を計画します。百済から人質として倭国に滞在中の百済の王子 豊璋(ほうしょう)を帰国させ、百済王朝を復活させようというものです。

大倭国の大王幸山(サチヤマ)は、近畿の大王家はじめ東国の毛野(けぬ)大王など全国に協力を依頼します。この時の近畿の実力者は、後の天智天皇、中大兄皇子です。皇子が病弱の斉明天皇の名代で全てを取り仕切っていましたので、筑紫に赴き協議に入ります。応援の軍勢も各地から到着し始め、筑紫の地は騒然としてきます。

中大兄は筑紫での長期滞在中に、中臣(なかとみの)鎌足(後の藤原鎌足)の優秀さ、外国語は出来るし、書物もよく読んでいるし、駆け引きにも長けているのに目をつけ、筑紫王朝のサチヤマに、近畿に先進地域筑紫の文明を教授願いたいとか何とかうまい事をいって、鎌足を自分のところに貰い受けることに成功します。

ところで、筑紫王朝のサチヤマは、根っからの九州人で、率先垂範、熱血指導で、常に戦でも先頭になって戦わないと気がすまない質でした。その性格は、祖先、5世紀の大王、倭武が宋朝に出した上奏文によく現われています。「吾らの祖先は自ら甲冑を身につけ率先して戦った云々」と書いてあるのです。

それに反し、中大兄はクレバーというかスマートでした。大化の改新などの改革や、小倉百人一首の秋の田のかりほのいほの苫を粗みわが衣手は露にぬれつつの和歌の作者でもあり、水時計なども作って時の記念日などになって今でもその業績の一端がのこっています。

ところで、女主人公、鏡王女の素性はどういったところの王女なのでしょうか。

(三)
実は鏡王女の父、鏡王は、筑紫王朝の係累の、唐津の鏡の地の王でした(火の国八代にも鏡の地名があり、肥後モッコスの流を汲む寅七としてはそちらに持って行きたかったのですがここは、古くからの朝鮮半島との通商の拠点唐津とするのが順当でしょう)。

その王女鏡王女は、筑紫の大王のところに、幼い身ですが行儀見習いで御所に上がっていました。その筑後の朝倉の御所で、時折見かける格好のよい親切な若者、中臣鎌足を好ましく思い兄と慕っていました。鎌足もこの利発で可愛い少女を可愛がっていました。

ところが、今回の作戦に東国や近畿の応援を頼んだので、近畿などから沢山の王族もやってきます。これらの王族の安全保障のために、筑紫王朝側も、王族を人質として出すことになります。鏡王一家や、 万葉歌人として後世著名となる額田王(ぬかだのおおきみ)一家などが否応なしに近畿に行かされることになります。

ところで、サチヤマの百済再興作戦は、中大兄皇子にとってとても勝ち目のある戦とはとても見えませんでした。下手すると巻き込まれて近畿の地も危ないぞ、と思っていました。天佑というか、母が苦悩するわが子を助けてくれたのか、中大兄の母、斉明天皇が亡くなりました。サチヤマ大王に、国に帰って喪に服したい、と了解をもらい、吉備・近畿の軍勢を連れてうまく引き上げる事ができました。

百済王子との義に感じてなのかどうか、サチヤマ大王は九州と東国だけの軍勢で朝鮮半島に繰り出します。百済王国復興という大義名分だけではとても勝ち目は無く、唐+新羅連合軍に、「白村江(はくすきのえ)の戦」での海戦だけでなく陸戦でもやられ4戦全敗し、完膚なきまでやられてしまいます。

この結果、従軍していたサチヤマは哀れ唐軍の捕虜になり、遥か長安(ちょうあん)の都に連れ去られてしまいました。

唐は戦後処理に劉仁願(リュウジンガン)郭務悰(カクムソウ)など数千人の軍勢を筑紫に派遣します。そして、近畿王朝側と郭務悰と折衝の任に当ったのが、中大兄の弟大海人皇子と鎌足です。鎌足としては、恩義のある筑紫王朝を何とか存続するために、大海人は唐と中大兄がうまくいくことに全力を尽くします。

唐としても海を越えて改めて征服戦を行うより、中大兄を通じて間接支配したほうが得策であるし、何せ唐を天敵視している高句麗とも対峙していて、こちらにもに注力しなければならない状況なのです。おまけに新羅もいつ反旗を翻さないともかぎらない情勢なのです。大海人と鎌足の働きもあり、唐としては、近畿王朝を抱き込み、再び唐に反抗しないようにするという策をとることになりました。

(四)
郭務悰が唐の代表として戦後処理に筑紫に滞在中に、中大兄は弟大海人皇子と鎌足を使って、筑紫王朝の諸制度を近畿中心に移し変えるとか、筑紫王朝や百済亡命貴族など重要人物を近畿に連れて行き、筑紫に力が残らないように努めます。

そして、筑紫の勢力が弱まり、唐が安心できるようになるまでに7年以上の月日がかかりました。ズーッと後年のことになりますが、昭和の時代になって、アメリカが日本を占領し、講和条約が出来るまでにも6年余かかっています。やはりこれくらいかかるのですね。

略々見極めがついた時点で、唐朝はサチヤマを帰国させることにしました。虜囚生活は約10年に及びました。形としては、筑紫王朝のサチヤマ大王の権力が、近畿王朝の中大兄皇子に禅譲された形となりました。中大兄皇子もやっと晴れて天皇位を名乗ることができたのです。それまでは、唐朝に遠慮してか、天皇は空位のままでした。これは寅七がいい加減なことを云っているのではありません、日本書紀にも「称制」として天皇位が7年間空位だったと書いてあります。

そして天智天皇が亡くなり、あの有名な壬申の乱が起こります。天智の弟、大海人皇子が、佐賀の吉野ヶ里の沖の有明海に停泊している軍団を束ねる、郭務悰のところに庇護を求めて走ります。世の人は「虎に翼を付けて放てり」と、大海人皇子が吉野に行った事をこう評しました。結局は、郭務悰をバックにした大海人皇子が、兄天智の息子、大友皇子を殺す、ということで事件は終結します。こういう内乱状態の中で、鏡王女はどう生きていったのでしょうか。


(五)
こういう状況の中で鏡王女は成人していきます。そして、10年の月日が流れ、美少女は、匂うが如くの、飛鳥京一の女性との評判が立つようになります。しかし、白村江の敗戦に心痛める王女でもありました。

或る日、敗戦処理で、近畿王朝と打ち合わせに来たサチヤマが、鏡王のところに突然現れ、10数年ぶりにサチヤマは成人した鏡王女に会います。サチヤマは10年前の凛々しい青年大王から、老年期に差し掛かった老いた姿です。

鏡王女は、10年前に「必ず筑紫へ連れ戻す」という約束はどうなったのか詰(なじ)ります。サチヤマは「今後いつ九州の地に帰れるかわからない、天武と鎌足を頼って生きていくよう、王女を諭し、今世の別れで一夜を共にします。

このような状況の下、当時としては、天武の後宮に采女(注 参照)〈うねめ〉として入るのは自然のことであったでしょう。
注)ウィキペディア百科辞典による説明:采女とは【各国の豪族から天皇に献上された美女たちである。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であった。鎌足の場合は、おそらく天智天皇に覚えが良かったことから、特別に采女を賜った。】

天武は、後宮に入れ、安見児〈やすみこ〉と名づけてやりますが、どうも自分に馴染んでくれない。おまけに、この王女は既に、筑紫王朝の胤、サチヤマの子、を宿しているのが分ってきます。それを知って、天智は鎌足と善後策を相談します。結果的に鎌足が、粗漏のないように扱うからと、自分に下賜してもらうように、天智に納得させます。

鎌足は、大恩ある筑紫王朝の胤を宿している鏡王女、かってそれとなく恋していた鏡王女を自分が庇護できる立場になったことを喜びました。その喜びの気持ちを歌った和歌が万葉集にある安見児の歌です。吾はもや
安見児(やすみこ)得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり(万2-95

(六)
ところで、鏡王女が生んだ子供は不幸にも男子でした。生まれた男子は世に出せぬ子であり、僧侶にすることに鎌足は決断します。この定恵は素晴らしい頭脳の持ち主で、遣唐使の一員に選ばれます。唐でもその才能に目を付けられ、仏教の奥義の取得の為に長期滞在となります。

サチヤマ大王もなくなり、鎌足も老いてきます。鏡王女は、淋しさから定恵の帰国を鎌足にお願いします。その望みが叶って、帰国はできたものの、可哀相にこの長男
定恵(じょうえ)は、筑紫王朝の種は摘み取っておかなければという、物部一族の暗殺者によって若くして、23才の時、 暗殺され亡くなります。

幸い、次男の史人(フヒト)は鎌足の息であることが判然としていましたので、類は及びませんでした。それでも鏡王女は、フヒトを山科の吾が隠居所に手元において放しません。精神的にもおかしくなってきます。

幸い天武天皇と鎌足は大海人皇子時代に、対唐折衝で苦労した仲です。今、近畿王朝の足元固めをしようとする時期、鎌足のずば抜けた才能が必要な時期、に事を構えることはしたくありません。天武天皇はフヒトを不比等と名を変えさせ、自分の側近に取り立てて鎌足の機嫌をとります。

又、鏡王女は、天武の暗黙の了解の下、サチヤマ王と定恵の姿を刻んだ仏像を朝夕拝みながら、鎌足の死も、不比等が実力者にのし上がっていくことにも無関心に、山科の地で一生を終えました。

元はと云えば、筑紫王朝の伝統的な朝鮮半島政策が生んだ王朝滅亡、とその蔭で不幸な一生を強いられた女性のお話、でした。鎌足という稀有の男性の出世物語という従来の説とは随分違うお話になりました。


黒岩重吾さんは「古代史の真相」で、このあたりについて、不比等(次男)が天武の子であったので出世した、とされます。それと比べ、長男が筑紫の大王の子であったという寅七説はいかがでしょうか。物語の粗筋というつもりにしては一寸理屈ぽかったかなあ、と反省しています。

これに、同じく天智が弟大海人皇子(天武)と争った、額田王の話を絡めたら一大メロドラマになるのでしょうが、寅七の手に余ります。ストーリーテラーが何せ色気が抜けてしまいかけている寅七ですから。

以上で、寅七の「鎌足と鏡王女」のお話はおしまいです。安見児と鏡王女は一応同一人物と、この話ではしていますが、二人は別人で、天武天皇から下賜された、いう説もある、ということを付記しておきます。

どうだったでしょうか、対馬出身の古代史好きのAさん、今度会ったときに忌憚ないご感想お聞かせください。

以上で、寅七の「鎌足と鏡王女」のお話はおしまいです。

参考図書
古代史の真相        黒岩重吾
「邪馬台国」はなかった   古田武彦
失われた九州王朝     古田武彦
壬申大乱           古田武彦
謡曲の中の九州王朝    新庄智恵子
異議あり日本史       永井路子
韓半島から来た倭国    兼川晋/李錘恒



付録の付録(第二章ノリキオ画伯の誕生 での建設業会誌に載せた昔の文章 参照)

「建設業界」誌 1996年7月号

 雑記帖 孫の名前を付ける

 昨秋、東京でサラリーマンをしている息子から、「超音波で診てもらったら女の子だとのこと」と知らせて来ました。それまで男の子の名ばかりいくつも考え、どうだろうとこちらの意見を聞いて来ていたのですが、女の子の名はまだ考えていないとのことでした。

 大体男親にとって、女の子の名付けはかなり難しいことなのではないでしょうか。良い名前だと思っても、どうしてその名前に辿り到ったのかを明確に説明できないと、あらぬ誤解を周囲から招きかねません。ちなみに、私の二人の娘の場合、私の名の一字をとって「通子」、もう一人は夏至の日にうまれたので「奈津」と明々確々と説明できる名前を付けました。

 正月、息子夫婦が大阪に顔を見せに来た時、名前は決めたのか聞きましたら、「漢字一字の名で、外国でも通用するような格好良い名前を考えているところ。凛(りん)などどうかと思っている」とのことでした。「凛ね、きりりっとした漢字は良いね」と褒めておきましたが、なんとなく気になる漢字の名前でした。

 普段は、新聞各紙の連載小説までは目を通す時間はないのですが、正月明けに会社で日本経済新聞の最終ページに目が行き「凛子」の文字が飛び込んできました。渡辺淳一氏の「失楽園」の女主人公の名でした。それにどうやらこの調子だと、出産予定日の頃には不倫がクライマックスになる感じです。早速息子に「サラリーマンの大半が日経読んでいるし、凛はまずいのでは」と言ってやったところ、「それならオヤジが良い名を選んでくれ」と、こちらにお鉢が回ってきました。

 名付け親を手元の古ぼけた昭和九年版の三省堂広辞林で見ますと「生児に名を付くる人、古来主に母方の祖父これに当たるを例とす」とあり、へえ、昔はそうだったのか、私の役目ではないなあと思い、念のため書店で同書の最新版に当りましたが、全く同じ説明なのには些か合点がいきませんでした。欧米の所謂ゴッドファーザーは、辞書によりますと「洗礼に立会い、聖書の中の聖人にあやかったクリスチャン名を付ける人」で宗教的色彩を帯びており、後で適当にミドルネームを追加出来るようです。

 知り合いのデイブ・ケリー氏にあるときフルネームを聞きましたら、「デイビッド・A・ケリーだ。ミドルネームのAは、第二次世界大戦の折、徴兵事務所でミドルネームはと聞かれ、無いというのも癪なので、Aと言ったらそうなってしまった」と笑っていましたが、いい加減のようです。英字紙などでは、ヒラリー夫人をヒラリー・ドットハム・クリントンと、夫人の旧姓をミドルネーム的に使って恰好をつけているようですが。

 孫の名を付けるとなると、自分の子の時よりも大変だということが、今回よく判りました。自分の子であれば、成人するまでは自分の責任下にあるわけだし、それなりに名付けた責任も担えるわけですが。

 とは言っても、ベジタリアンの親がその子にベジと名付けた人ほどの勇気も無く、私の場合、息子には単純に「太郎」と名付けようかと思ったのですが、「太郎」というと、八幡太郎義家のように一家の惣領的イメージなので、三男坊の私としては遠慮することにしました。私の幼友達の朝日新聞に勤めている角倉二朗君の朗を貰って「太朗」と名付けたのを思い出します。

 娘、奈津のところに出来た孫たちの時にも、そういえば口を出しました。娘の主人は、物理関係で重力波なる得体のしれない現象を研究していますが、最初の息子の時、「空〈そら〉」と名付けたいと在留先のカリフォルニア州パサデナ市から言って来ました。

 高知の実家のお母さまより「ちょっと奇抜すぎる。私の意見は聞いてくれそうにもないから、そちらから言ってみてはもらえないか」との依頼がありました。「空のは嘘の意もありマイナスイメージなので『そら』にこだわるのなら、宇宙とか青空とか天空とか、もう少し格好の良い漢字を当てて、そらと読ませたら」と言ってやりましたら、婿殿から「わかりました。ひらがなで「そら」とします。本人が成人して本人が気に入る字を探して付けてもらいます」ということで、初孫には漢字名はまだありません。

 また、次の子の時に「陽〈ひなた〉」と名付けたい、と言ってきましたが、「お兄ちゃんに漢字名が無いのに弟が持っていたら(お兄ちゃんが)可哀そう」と意見を言ってやり、結局私の小言幸兵衛的な意見のために、二人の五歳と三歳の可愛い孫達は、幼名的なひらがな名だけ持っています。昔の武士などは、幼名を元服の時に替えていましたが、これは日本人の良い知恵だったのになあと思います。

 ところで、嫁からも可愛い名前をと頼まれ、最近の名前の流行はと、社内報綴りを引きだして、「誕生お知らせ欄」を参考のため近年数年分を見ていきました。女児に圧倒的に多いのは、カナ・ミカ・マミ・リサ・ユカなどの二字の名を、佳奈・美香・真美・理沙・優香など佳字の漢字表記したものであり、○○子は流行らぬ名前のようです。そうこうしているうちに二月中旬になり、息子から「名前はまだか。名前がないとお腹の子に呼び掛けもできない」とせっついてくる。夏目漱石の猫だって「吾輩は猫である。名前はまだない」と威張って活きていたのに慌てるな、とも言えず、気を締めて考え始めました。

 誕生予定の季節に因んで何かないかと藁でも掴むように、中本郷顔師から惠送頂いた『俳句歳時記』をひもとき、季節のイメージ的漢字を探してみましたが、霞・麗・曙・小春などいかにも古めかしいのであきらめ、ならばアナグラム的手法では、と夫婦の名「太朗」と「まさこ」を掛け合わせていくつかの名前を得ました。その中の一つに「たまお」があります。ブラウン管上の中村玉緒さんから受ける感じは非常によいものですので、それなりに気に入りました。しかし、私の知人に夫婦とも同じ名の人がいます。双方とも操〈みさお〉さんなのです。玉緒と名付けて、将来多摩男さんと縁があったらややこしい。

 またこの時、人に薦めるからには、他人から字画が悪いと言われても可哀想かと思い、『姓名判断学の辞典』を購い、勉強してチェックもしてみたりもしました。字画数からの運勢など全くばかげているとは思います。代々同じ名を名乗る役者や商家の人は、初代の運にあやかろうと襲名されるのでそれなりに意味はあるのでしょうが、ブルボン王朝の歴史が示すように同じ名前の王様でも運命は異なります。星占い、丙午、六曜等この種のことは沢山あります。大安の土曜日は婚儀・地鎮祭・竣工式等々で、ゴルフの予定を組むのは、皆さんと同じく至難の業です。

 話が逸れ始めましたので元に戻します。最終的に、「たろうとまさこの絆」の意で「環〈たまき〉」を第一候補に息子に伝えました。環は、誕生祝が四分の一になりかねない、二月二十九日を数時間クリアして、母子ともに健康に三月一日に誕生しました。めでたし、めでたしの爺馬鹿丸出しのお話しでした。 【完】




 奥書

七十歳からの自分史
わたしの棟上寅七

2009年2月10日 第1刷

著者・・・・・中村通敏
イラスト・・・川村そら
装幀者・・・デザイン事務所セード
発行者・・・成瀬雅人
発行所・・・株式会社原書房
〒160-0022東京都新宿区新宿1-25-13
電話・代表03(3354)0685
http:・・www.harashobo.co.jp

印刷・製本・・・株式会社明光社印刷所
ℂMichitoshi Nakamura.2009